満州事変と第二次国共合作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:20 UTC 版)
「中華民国の歴史」の記事における「満州事変と第二次国共合作」の解説
同時期、日本の関東軍が満州事変を契機として満州を掌握し、かつて清朝最後の皇帝であった宣統帝を執政に推戴する満州国を建国した(いわゆる、十五年戦争の始まり)。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論や汪兆銘狙撃事件のような日中提携を模索するものへのテロが引き起こされていたが、蔣介石は日本よりも共産党の方が脅威であるとする反共主義の立場から、抗日政策よりそ剿共作戦を優先し、中国共産党を殲滅寸前に追い込むことに成功していた。そのような中、父である張作霖を関東軍に殺された満州出身の軍閥・張学良は、共産党殲滅のための最後の作戦を指導するために西安を訪れていた蔣介石を西安に拉致連行し、国民党と共産党の再合作を要求した(西安事件)。蔣は最終的にこれを受諾し、西安を訪問した共産党代表・周恩来との会談を通じてこれを公式に宣伝した後に共産党軍を「国民党所属第八路軍」として国民政府軍に組み入れた(第二次国共合作)。
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