満州事変と対日交渉とは? わかりやすく解説

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満州事変と対日交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:11 UTC 版)

何応欽」の記事における「満州事変と対日交渉」の解説

1928年民国17年1月蔣介石復権して国民革命軍総司令就任し何応欽総司令部参謀長としてこれを補佐した。これ以後蔣介石何応欽の関係は修復され同年11月-12月何応欽国軍編遣委員会主任委員訓練総監部総監務め軍縮や反蔣介石討伐推進している。1929年民国18年3月中国国民党第3期中央執行委員当選し1930年民国19年)春、軍政部長就任した1931年民国19年1月、湘鄂贛閩四省剿共総司令南昌行営主任任命され第2次共産党紅軍包囲掃討作戦敢行したが、失敗に終わる。続く第3次第4次作戦でも敗北喫した1931年民国20年)、満州事変九・一八事変)が勃発すると、何応欽蔣介石の「安内攘外」(先に国内安定、後に抗戦方針遵守し日本軍との全面抗戦には消極的な態度取り続けた。1933年民国22年3月何応欽張学良後任として軍事委員北平分会会長代理として北平赴任する以後行政院北平政務整理委員会委員長の黄郛と共に華北侵攻する日本軍との交渉従事し5月何応欽意を受けた中国側代表の熊斌当時軍事委員北平分会参議)と日本側代表の岡村寧次当時関東軍参謀副長)との間で塘沽協定結ばれた同年協定に不満を抱いた馮玉祥らが察哈爾民衆抗日同盟軍組織すると、何応欽土肥原賢二らと連携してこれを包囲し8月に同軍を解散追い込んでいる。 1935年民国24年5月天津中心とする華北各地での抗日行動につき、日本側が何応欽非難し何応欽もこれに応じて交渉開始した6月河北省からの国民党部や軍の撤退等を内容とする梅津・何応欽協定中国側呼称:何協定)を締結している。11月軍事委員北平分会廃止され12月何応欽南京戻り軍政部長の任に復した1936年民国25年12月12日西安事件蔣介石らが張学良楊虎城らに拘禁されると、何応欽即時討伐主張し16日には討逆軍総司令就任宋美齢らの反対意見無視して西安への攻撃命令を下す18日蔣介石と共に拘禁されていた蔣鼎文蔣介石直筆軍事行動停止命令を何に届けたことで攻撃中止され西安事件そのもの結局平和裏解決された。

※この「満州事変と対日交渉」の解説は、「何応欽」の解説の一部です。
「満州事変と対日交渉」を含む「何応欽」の記事については、「何応欽」の概要を参照ください。

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