満州事変と対日交渉
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1928年(民国17年)1月、蔣介石が復権して国民革命軍総司令に就任し、何応欽は総司令部参謀長としてこれを補佐した。これ以後は蔣介石と何応欽の関係は修復され、同年11月-12月に何応欽は国軍編遣委員会主任委員、訓練総監部総監を務め、軍縮や反蔣介石派討伐を推進している。1929年(民国18年)3月、中国国民党第3期中央執行委員に当選し、1930年(民国19年)春、軍政部部長に就任した。1931年(民国19年)1月、湘鄂贛閩四省剿共総司令兼南昌行営主任に任命され、第2次共産党(紅軍)包囲掃討作戦を敢行したが、失敗に終わる。続く第3次・第4次の作戦でも敗北を喫した。 1931年(民国20年)、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、何応欽は蔣介石の「安内攘外」(先に国内安定、後に抗戦)方針を遵守し、日本軍との全面抗戦には消極的な態度を取り続けた。1933年(民国22年)3月、何応欽は張学良の後任として軍事委員会北平分会会長代理として北平に赴任する。以後、行政院北平政務整理委員会委員長の黄郛と共に華北に侵攻する日本軍との交渉に従事し、5月、何応欽の意を受けた中国側代表の熊斌(当時、軍事委員会北平分会総参議)と日本側代表の岡村寧次(当時、関東軍参謀副長)との間で塘沽協定が結ばれた。同年、協定に不満を抱いた馮玉祥らが察哈爾民衆抗日同盟軍を組織すると、何応欽は土肥原賢二らと連携してこれを包囲し、8月に同軍を解散に追い込んでいる。 1935年(民国24年)5月、天津を中心とする華北各地での抗日行動につき、日本側が何応欽を非難し、何応欽もこれに応じて交渉を開始した。6月、河北省からの国民党部や軍の撤退等を内容とする梅津・何応欽協定(中国側呼称:何梅協定)を締結している。11月、軍事委員会北平分会は廃止され、12月に何応欽は南京に戻り、軍政部長の任に復した。1936年(民国25年)12月12日、西安事件で蔣介石らが張学良・楊虎城らに拘禁されると、何応欽は即時討伐を主張し、16日には討逆軍総司令に就任、宋美齢らの反対意見を無視して西安への攻撃命令を下す。18日、蔣介石と共に拘禁されていた蔣鼎文が蔣介石直筆の軍事行動停止命令を何に届けたことで攻撃は中止され、西安事件そのものも結局平和裏に解決された。
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