主家との暗闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 15:52 UTC 版)
主家では赤松政則の死後、その養子である赤松義村が幼年であったこともあり、政則後室である洞松院の後見や、浦上氏などの支持を受ける形で、播磨・備前・美作の守護職に就いた。その後、義村は成長するにつれ、勢力を伸張させた守護代 浦上氏に惧れを抱き、また自立の機会を窺っていた。 永正14年(1517年)、この頃よりようやく政務に参加するようになった義村は、2人の宿老(浦上村宗、小寺則職)と義村の3人の側近(櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親)から構成される新体制を布く。しかし、この新体制は 「宿老の専横抑制と義村自身の発言力の強化」 を狙う意図が見えていたため、村宗は義村に反発するが、さらにもう一人の宿老である則職とも対立してしまう。これにより則職や3人の側近による讒言で立場を悪くした上に、これを重んじた義村によって、出仕差し止めという仕置きを下されてしまった。
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