主家転々の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 12:56 UTC 版)
弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。母「とら」は多賀良氏の娘であったが、その後、藤堂忠高の養女となっている。 幼名を与吉と名乗った。幼少の頃より人並み外れた体格で、壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったとされる。性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わる。13歳の時には、兄の高則よりも背が高く、筋骨逞しい身体であった。兄の戦死後、若くして家督を継いだ。 はじめ近江国の戦国大名・浅井長政に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで父・虎高と共に磯野員昌隊に属して初陣を飾り、徳川方の酒井三郎兵衛忠高(苗字は坂井とも)の首級を取る武功を挙げ、長政から感状と脇差を受ける。その後宇佐山城攻めでも活躍するが、元亀3年(1572年)同僚の山下某を勲功を巡る争論の末切り捨てて逃走したため父・虎高が謹慎となる。なおこの時高虎は大紋の羽織を裏返して着用し、追手の者が「大紋を着た者を見なかったか」と尋ねても誰もわからなかったという。 天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった山本山城主阿閉貞征に厚遇されて仕えるが、同僚の阿閉那多助・広部文平が自分の指示に従わなかったため殺害し浪人となる。なお、この時に渡辺了と交流している。 次いで同じく浅井氏旧臣の小川城主磯野員昌の家臣として80石で仕えた。やがて信長の甥・織田信澄が佐和山城に入るとこれに仕えるが(『諸家深秘録』)、加恩もなかったので長続きしなかった(母衣衆の者と喧嘩をしている)。
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