男女ノ川登三
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男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)出身で佐渡ヶ嶽部屋(入門時は高砂部屋)に所属した大相撲力士。第34代横綱。本名は坂田 供次郎(さかた ともじろう(きょうじろう))。
注釈
- ^ 「朝潮」の四股名は高砂部屋に代々伝わる由緒ある四股名だが、男女ノ川が名乗った「朝潮」を、歴代の「朝潮」に含めるかどうかは議論の分かれるところで、もし含むとしたら3代目である。
- ^ 横綱時代の対双葉山定次戦は通算0勝7敗と一度も勝てず、横綱同士の対戦で7連敗したのは史上最多記録である(2010年1月場所で朝青龍明徳が白鵬翔に対して7連敗を記録し、2013年現在では最多タイ記録)。
- ^ 顕著な例は1940年夏場所である。当時平幕が東西20枚設けられていた中で15番中6番が平幕2ケタ台であった上、相手方の双葉山・羽黒山がともに途中休場したこともあり、13日目にはこの場所の対戦相手として最低地位の東前頭15枚目に位置する二瀬川政一と対戦した。しかもこの二瀬川は12日目まで5勝7敗の成績であり、このような割が実現した背景には東西制と合わせて施行されていた系統別総当たり制が影響しており、同門に幕内力士の多かった男女ノ川は優遇を得た形となった。
- ^ 金額は総額32万5千円であったが、時津風の寸志はそれと別に10万円入っていた。
- ^ 復帰別席のため順位なし
出典
- ^ a b 相撲レファレンス 男女ノ川 登三
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p12
- ^ 春場所千秋楽、玉錦から痛い黒星『東京朝日新聞』昭和11年1月21日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p702 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 第三十四代横綱に推挙される『東京朝日新聞』昭和11年1月22日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p702)
- ^ 熊本の吉田司家で晴れの横綱授与式『大阪毎日新聞』昭和11年11月19日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p702)
- ^ a b c d e f g h 「下足番になった横綱」 川端要壽 小学館
- ^ a b 【大相撲の不思議】関取の四股名から「川」が消えたって知ってた!?(2/3ページ) 現代ビジネス 2020.09.28 (2023年3月19日閲覧)
- ^ https://www.chibanippo.co.jp/news/national/784779
- ^ “出馬、農家、探偵、下足番…? 奇人横綱・男女ノ川「伝説」の真相は:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2022年7月25日閲覧。
- ^ 『相撲』2015年6月号、2015年5月28日、136頁、ASIN B00I8LSVUY。
- 1 男女ノ川登三とは
- 2 男女ノ川登三の概要
- 3 来歴
- 4 エピソード
- 5 関連項目
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