大関昇進後
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大関昇進直後、2015年6月に行われた弥彦村の村おこしイベントで「どんな大関になりたいか?」と質問された照ノ富士は、「どんな大関ではなく、上を目指していますから。」 と答え、更なる昇進への意欲を示した。大関昇進伝達式でも「さらに上を目指し精進いたします」と口上を述べていた。 2015年7月場所は新大関として初登場し初日から6連勝と好調だったが、7日目に豪栄道に敗れ初黒星。9日目稀勢の里に勝ち8勝1敗と勝ち越したが、その後11日目に白鵬、12日目に鶴竜の両横綱に敗れて優勝争いから脱落。千秋楽は大関角番脱出を賭ける7勝7敗の琴奨菊に立合いで変化されて勝ち越しを許し、結果11勝4敗の成績だった。元大関の鳴戸(琴欧洲)・二子山(雅山)・藤島(武双山)各親方らは、照ノ富士の新大関場所に「100点満点、十分の内容。大関昇進で多忙となる中、硬くなる初日に勝てたのは大きい。大関の責任は果たした」と称賛。但し玉ノ井親方(栃東)は「優勝を逃したので90点。今後も最後まで優勝戦線に加わって欲しい」と奮起を促していた。 2015年9月場所は横綱白鵬が3日目から途中休場となる中、初日から一人11連勝していた。しかし12日目の栃煌山戦で初黒星、翌13日目の稀勢の里戦で寄り倒された時、右膝を負傷。14日目の豪栄道戦に強行出場するもあっさり寄り切られ3連敗。それでも千秋楽結びの一番では、過去4戦4敗だった単独トップの横綱鶴竜を寄り切って初勝利。12勝3敗同士の優勝決定戦へもつれ込んだが、鶴竜に上手出し投げで敗れて2回目の幕内優勝はならなかった。場所後の精密検査で「右膝の前十字靱帯損傷・外側半月板損傷などで1か月の加療を要する」との診断書が下され、秋巡業は休場。また翌11月場所、照ノ富士の綱獲りについて北の湖理事長は「優勝又は13勝以上ならともかく、12勝の優勝同点では軽過ぎる」と否定的な意見を表明した。 2015年11月場所、右膝の怪我が完治しない中強行出場するも9日目の大関稀勢の里戦で4勝5敗と黒星が先行。その後は12日目・豊ノ島戦で敗れるも、13日目の横綱鶴竜戦で叩き込んで7勝6敗とし、翌14日目に日馬富士と優勝を争った横綱白鵬を大相撲の末寄り切り、ようやく勝ち越し。結果9勝6敗で取り終えたが、同2015年の年間最多勝(65勝25敗)は、白鵬(66勝12敗12休)に僅か1勝届かず初受賞を逃した。 2016年1月場所、4日目の碧山戦で寄り切りで勝った際に右肩を負傷した。5日目の旭秀鵬戦では右腕が全く使えないまま寄り切られ、苦悶の表情を浮かべる。翌6日目の栃煌山戦は不戦敗、右鎖骨骨折(全治不明)により自身初土俵以降初めての休場となった。1月18日には以前から傷めている左膝の内視鏡手術を決行。次の3月場所は、自身初の大関角番となった。 3月場所も膝の状態は完全ではなく、中日までに平幕相手に3敗を喫する苦しい場所となったが、12日目に鶴竜を下しなんとかカド番を脱出した。しかし、その後は3連敗で8勝7敗で取り終えた。 5月場所は膝の状態が3月場所よりも悪く、初日から2連勝した後は格下相手に踏ん張りが効かず6連敗となった。続けて2横綱にも敗れ、10日目にして次場所での2度目のカド番が決まった。その後も連敗は続き1968年秋場所の豊山以来、48年ぶりの大関1場所10連敗を記録した。さらに翌日、大関の琴奨菊にも敗れ、大関としては69年ぶりとなる同一場所での11連敗を喫した。これは年6場所15日制定着後では初めての事態となった(不戦敗、休場を含まない場合)。15日制以前でも相撲協会広報部によると年2場所の47年11月場所に11日制で11戦全敗した大関名寄岩の例のみとのこと。途中休場ありの一場所15日制の記録では年3場所の51年に春場所で途中3日間の休場を挟んで12連敗(12敗3休み不戦敗あり)した汐ノ海に次ぐ記録となった。そして11連敗の翌日。大関豪栄道に押し出され、不戦敗、休場無しで汐ノ海と1946年11月場所~47年11月場所の名寄岩(休場あり)の2人の大関連敗歴代ワースト記録に並んでしまった。連敗のまま迎えた千秋楽。関脇琴勇輝に押し出しで敗れ皆勤で大関歴代ワースト記録を更新する13連敗を記録してしまった。さらに大関の一場所皆勤13敗は2009年3月場所の千代大海に並ぶ歴代ワーストタイ記録になった。照ノ富士は記者に「強い大関と言われたこともあるが、これで弱い大関とも言われる。ずっと負けていたら楽しくない」「こういう時でも応援してくれる人がいるのはうれしい。いい時もくる。来場所を見てください」と語っていた。 2度目の角番で迎えた翌7月場所は初日に白星を記録し先場所からの連敗を止め、その後4連勝を記録した。しかし、その後3連敗を喫した。その後、8日目に豪栄道に勝利し連敗を止めるが翌日から再び連敗。11日目から白鵬に勝利するなど連勝するも再び13日目から連敗。14日目の敗戦後「しょうがない。できることをやって、できないものはいい」と現状を受け入れ、千秋楽に先場所敗れており、ここまで7勝7敗の同じく勝ち越しをかける魁聖との対戦を伝えられると「大丈夫」と自分に言い聞かせていた。そして、迎えた千秋楽で魁聖に小股掬いで勝利し、大関の地位を保持した。照ノ富士は「今場所は長かった。来場所はけがを治してまた」と安堵の様子だった。 9月場所は、初日に嘉風に黒星するもその後連勝し隠岐の海に敗れた(物言いはついたが軍配通り敗れた。)あと、再び連勝と4勝2敗で白星が先行していた。しかしその後7日目から長期連敗し、この場所で幕内全勝優勝を果たした豪栄道等に何も出来ずに負けるなど精彩を欠く相撲が目立ち、12日目に碧山に押し出しで敗れ6連敗で負け越しとなった。これにより来場所は自身3度目の角番となる。また取組後、過去10戦全勝の碧山に何もできず負けたことについて「弱くなってるな、俺」と語った。さらにそのまま連敗を続け、横綱鶴竜に寄り切りで敗れ8連敗で10敗目を喫し、結局千秋楽も立合い変化するも寄り切りで稀勢の里に敗れて9連敗の4勝11敗で場所を終えた。11月場所は2016年内で3度目の角番となるが、同一年内に角番を3場所経験するのは、2005年の魁皇と千代大海以来。 10月14日の秋巡業豊橋場所では高安、錦木、貴ノ岩と22番取って6勝と不調で、特に高安には12連敗を喫した。 迎えた11月場所初日は、嘉風につり出しで敗れ大関で2度目の10連敗を記録した。その翌日も敗れ11連敗まで記録は伸びてしまうが3日目に隠岐の海に勝利しようやく連敗を止め、その後復調し8日目には大関琴奨菊を危なげなく寄り切りで倒すなど6連勝する。さらに翌日も魁聖に上手投げで勝利で7連勝。九州入り後は状態も上向き「思い切って相撲を取れている」と自信も見せ、2敗をキープし優勝争いに絡むも全勝だった横綱鶴竜に敗れ連勝がストップ。翌日の豪栄道にも敗れ優勝争いから脱落するも12日目に横綱白鵬に勝利し勝ち越しを決め、角番を脱出した。だが、終盤3連敗しそのまま8勝7敗で場所を終えた。この年の勝ち越しは全て8勝7敗で年間通じての成績は33勝48敗9休勝率.407、11連敗以上2回と膝の故障に苦しめられた年となった。休場ありでの48敗はこの年もっとも黒星を記録した平幕の佐田の海の51敗に3敗差でこの年の大関では当然ワーストだった。さらにこの年の勝ち星33勝は6場所全て幕内にいた力士では最小で照ノ富士は「つらく、苦しい年だった。大関から落ちてもおかしくない状態だった」と話した。だが11月場所は力なく押し出される場面は少なく「これだけ相撲取れるんだから、前よりはちょっとずつ良くなっている」と膝の状態が上向いていることも証明した。また、「12日目から熱が出た。病気とけがが一気に集まってきた。よくこんな体で耐えられたと感じる」と勝ち越してからは発熱などで怪我と共に二重の苦労があったことも明かしていた。しかし、冬巡業は古傷の左膝半月板の状態が思わしくなく相撲を取れない状態で帰京を余儀なくされ「なかなか治らない。筋などを切っているのでなかなか力が入らない」とため息をついていた。 2017年1月場所も初日から連敗し、先場所からの連敗は5まで伸びてしまうが3日目に勝利しようやく連敗を止めるも翌日から再び連敗。その後再び連敗を止めるとそこから3連勝を記録した。だが、その後再び連敗し4連敗で12日目に負け越しが確定し、これにより来場所は自身4度目の角番となった。この場所は大関琴奨菊が角番で負け越しで大関陥落。自身も来場所角番となる負け越しについて照ノ富士は「何とも言えない。弱いから負けたんでしょう」と元気が無かった。結局、その後も連敗は止まらず7連敗で4勝11敗で場所を終えた。大関11場所目で4回目の角番は最速記録。 4度目のカド番で迎えた3月場所は初日から5連勝と好調で、6日目に高安に敗れるものの9日目に勝ち越して角番を脱出した。11日目には2015年9月場所以来となる二桁勝利を記録した。照ノ富士は「下がると怖い。無理してやっている」と打ち明け、地道にトレーニングなどを重ね「痛みはあるが、先場所より稽古できているし、動けている。我慢できている」と手応えを話していた。さらにその後も白星を重ね、14日目には自己最多タイの13勝目を記録し、優勝に王手をかけた。先場所の負け越しで大関から関脇へ陥落した琴奨菊の大関復帰を阻止した。千秋楽に、13日目に負傷している稀勢の里戦で勝てば11場所ぶり2回目の優勝という、絶対的に有利な立場にあったが、左への変化こそ堪えたものの捕まえきれないまま前に出たところに繰り出された突き落としの餌食になってしまい、優勝決定戦に持ち込まれた。さらに優勝決定戦、今度は立ち合いからすぐにもろ差しが決まって万全の態勢で一気に出るが、土俵際決死の小手投げを食らって叩きつけられてしまい、手負いの相手に連敗して逆転されるという悪夢のような展開で、すぐそこまで迫っていた優勝は手からすり抜けていった。 照ノ富士は「この場所準優勝なら来場所綱取りになるのか?」と報道陣に聞いたりしていたが 1月場所は4勝11敗の負け越しなど不安定な成績であったため、5月場所での綱取りの声は上がらなかった。北村正任横審委員長も「内規は絶対的なものではない。準優勝、優勝で上げるなら横審はいらない。(成績が)安定しないと議論にならない」と長期的視点の必要性を説いている。場所後の3月31日、14日目の相撲で変化をして勝ったことから「モンゴルへ帰れ」という野次を受けたことに関して日本相撲協会が日本政府から事実関係などの問い合わせを受けたことが、協会関係者の話で分かった。関係者によると、協会は、当該の野次を事実として確認するのは困難とした上で、円滑な競技進行や安全で平穏な観戦の確保を目的とした「観戦契約約款」に基づき、今後も来場者に対応していくと回答したという。照ノ富士は優勝争いで古傷の左膝が悪化。場所後にモンゴルに帰国し治療とリハビリに専念し4月17日の東京・靖国神社奉納大相撲で春巡業に復帰した。また、膝の状態について「体調は徐々によくなっている。モンゴルでは入院して治療していた」「休んでも治らない。稽古しながら休まずに徐々に鍛えた方がいい。相撲取りなので」としていた。 5月場所は初日から遠藤、玉鷲と連敗を喫した。2日目の取組後には「…。体の動き? 見ての通りだよ」と不調をアピール。しかし、その後復調し8連勝するなど先場所から続く好調を維持し10日目には勝ち越しを記録した。その後も連勝を続け10連勝を記録した。しかし、この日の正代を破った際に古傷の左膝を痛めてしまう。翌日の出場さえ危ない状況だったが12日目は栃煌山を右足一本で踏ん張って小手投げで逆転勝利し自己最多タイの11連勝。支度部屋では腫れた膝を出しながら「大丈夫。思いきって相撲が取れている」と話した。だが、優勝争いしていた白鵬との直接対決で敗れ優勝を許してしまった。左膝の状態は悪化しているが「優勝争いをしていたから、最後まで取り続けないと」と言い、千秋楽も「当たり前」と出場を宣言していた。また、「千秋楽はもうどうでもいい。優勝ないじゃん。優勝しないと意味ない? うん」と終戦を宣言していたが千秋楽は大関取りだった高安を小手投げで倒し結局この場所12勝3敗の優勝次点で終えた。2場所連続の12勝以上は大関取りだった2015年以来となった。場所後に古傷の左膝の遊離軟骨を除去する内視鏡手術を受け、徐々に良くなっていると語っていた。 7月場所は、稽古はおろか蹲踞もままならない状態で挑み、初日から不調で連敗。3日目に勝利するも再び連敗。1勝4敗と苦しみ。5日目の4連敗中だった小結琴奨菊戦の敗北した取組で手術した左膝を再び痛めてしまい、6日目から休場した。6日目は正代戦は不戦敗。詳しい症状は左半月板損傷で約7週間の加療であり、来場所の出場さえ厳しいほどの重症であった。また、来場所は歴代ワースト8位、自身5度目の角番となる。照ノ富士は入院し夏巡業は全休。治療に専念するという。9月場所の出場は無理と見られていたが全休した夏巡業の間に「1日3度の治療と2度のトレーニング」を繰り返し、回復を進めた成果が出て「動ける体になってきた。膝もほぼ治ったし、この2年で一番いい」と明るく話し「優勝を目指して頑張る。順調に上げていきたい」と自信の様子を見せていた。 9月場所は5度目のカド番を東大関2で迎えた。しかし、初日から連敗し不安視されている膝の状態などは良いとしながらも、怪我をする前の状態に戻ったことに体がなれていないなどと言っていた。結果が伴わない事態に「自分でも分からないですね。しっかりと一番一番やるだけです」と気合を入れた。3日目にようやく白星をあげるが4日目から再び連敗。さらに5日目の取組で再び膝を負傷してしまう。土俵下でも左膝を曲げられず帰りも付け人に肩を貸してもらい、記者に照ノ富士は前に出たときに痛めた「膝がズレた」と呟いていた。今後の出場も「まずどうなってるか、みてからです」と悔しそうな表情だった。翌日になっても膝の炎症がおさまらず「左膝半月板損傷で約2週間の加療を要する見込み」との診断書を提出し休場した。5日目を終えて1勝4敗で伊勢ケ浜親方は「昨夜は痛みが取れて出られると思ったが、朝になって歩けない。今の状態では再出場は無理ではないか」と話していた。6日目の正代戦は不戦敗となった。その後、同場所9日目の時点で大関で2場所連続負け越しとなり、14場所務めた大関から陥落が決定した。角番制度となった1969年名古屋場所以降では2017年春場所の琴奨菊以来で17人目(20例目)。
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大関昇進後
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11月場所に際しては「あまり20代最後は意識しないように、できるだけ若々しい相撲を取れたらと思う」と語っていたが、3日目の髙安戦で足首を痛め、5日目に休場を願い出た。左足首の靱帯損傷で約3週間の安静加療を要するという。11月場所後の30日、「(完治は)そこまで(初場所)にはさすがに間に合うと思う。勝ち越せればいい」と再起を誓い、この日はテーピングで左足首を固定し、負荷を抑えた四股、すり足を行った。患部の状態については「歩く分には痛みはないですね。普通に四股を踏む分だったら痛みは感じない。足の位置を変えずに体をひねったりして、足首がねじれる感じするとちょっと痛みが出ますね」と説明。 12月11日、都内の時津風部屋で四股やすり足の基本運動とゴムチューブなどを使った上半身のトレーニングを入念に行った。相撲を取る稽古の再開について「体と相談して決める」と慎重な姿勢を示した。部屋付きの井筒(元関脇・豊ノ島)は「(けがは)相撲人生を左右するものではない。けがよりもプレッシャー。よくネガティブなことを言っているけど、これを乗り切る強い気持ちはあると思う」と期待を寄せた。22日、部屋で幕下以下と10番相撲を取って全勝し「とりあえず痛みは感じない」と怪我の調子を語った。2021年1月4日、部屋で豊山と10番ほど取った。2020の11月場所で負傷した左足首は「前に出る分には怖いことはない」という状態まで改善している。
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大関昇進後
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新大関の同年9月場所は優勝を期待されたが10日目までに4敗を喫して優勝争いから脱落、10勝5敗に留まった。翌11月場所前には胆石を患っていることが判明し稽古不足となったが千秋楽に既に優勝を決めていた横綱白鵬を破るなど10勝5敗の成績を挙げる。場所後に胆石の除去手術を行った。この年(2007年)は年間63勝をあげ、年間最多勝の白鵬(74勝)に次いで第2位となる勝ち星をあげた。 2008年1月場所はその手術による影響もあってか千秋楽に8勝7敗と勝ち越し。3月場所は初日から3連敗のスタート、8日目では2勝6敗と苦しい星勘定となる。それでも、13日目に横綱朝青龍を上手出し投げで破り、対朝青龍戦の連敗記録を28でストップさせ、千秋楽に8勝7敗で勝ち越しを決めた。翌5月場所も2日目から11日目まで白星と黒星の交互が続いて波に乗れなかった。13日目に横綱白鵬に勝ち琴欧洲の援護射撃で見せ場は作ったものの、3場所連続の千秋楽勝ち越しで8勝7敗に終わった。この年に行われた初めてのモンゴル巡業は乗り継ぎ先のソウルで急性虫垂炎と診断されて巡業は不参加となった(後に病名は尿管結石に訂正された)。 大関として初めて迎えた地元7月場所は白鵬に全勝を許したものの優勝次点の11勝4敗という成績だった。翌9月場所は13日目まで11勝2敗と優勝争いに加わったが、14日目に魁皇に敗れて優勝争いから脱落して11勝4敗。11月場所は終盤の3連敗で9勝6敗に終わった。この年10月、一つ年上の女性と結婚。翌年4月、挙式・披露宴を行った。 2009年1月場所は、場所直前痛風による右足首の痛みを訴え3日間入院、稽古がほとんど出来なかった。その影響で序盤から黒星が続き、10日目で朝青龍に敗れ2勝8敗、大関昇進後初めての負け越しが決定。2005年9月場所から2008年11月場所まで続いた、幕内連続勝越し記録は20場所でストップした。12日目から治療のため不戦敗(対戦相手の白鵬は不戦勝)・途中休場に。翌3月場所は自身初の大関角番となるが、12日目に朝青龍を破り、13日目に勝ち越して角番脱出は果たしたが8勝7敗。5月場所も7勝2敗から5連敗し、千秋楽にようやく勝ち越しの8勝7敗に終わる。 地元7月場所は初日から5連勝し、11日目に無敗の白鵬を破って優勝争いのトップに並ぶが、その後連敗して脱落。それでも5場所振りの2桁勝利となる12勝3敗の好成績だった。翌9月場所は大関になってから最高となる初日からの7連勝を記録。11日目まで9勝2敗と優勝争いに加わったものの、その後4連敗を喫して9勝6敗に留まった。次の11月場所は13日目で朝青龍に勝利して勝ち越したが、その後は白鵬・魁皇に連敗して結局8勝7敗に終わった。この年、本割・決定戦合わせても7敗しかしなかった横綱白鵬に、唯一勝った日本人力士が琴光喜である。 11月場所の11日目には、前の9月場所11日目に続いて、千代大海戦で不戦勝を記録する。なお、同一相手に2場所連続で不戦勝となったケースは、力道山が前田山に1948年5月場所、10月場所、1949年1月場所と3場所連続で不戦勝(1948年10月場所は前田山が取り直しの一番に上がれずに力道山の不戦勝)となって以来60年ぶりで、年6場所制になってからは史上初の珍事となった。 2010年1月場所は、大関昇進後初の初日から4連敗を喫してしまう。5日目に初白星を挙げたが7日目までに6敗と振るわず、「左足親指関節亜脱臼・全治2週間」により8日目から途中休場。翌3月場所は自身2度目の角番となった。3月場所は11日目に8勝目を挙げて角番を脱出したがやや不振で9勝6敗で終わった。翌5月場所も9勝6敗だったが、結果的にこれが琴光喜にとって現役最後の出場場所となる。
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大関昇進後
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6月5日に本格的な稽古を再開。 本人によれば3日も稽古場で軽く汗を流したという。5日は相撲を取らず、すり足をしたり、若手に胸を出したりした。当面は基本運動や体幹強化に努める方針で「激しい稽古をしても、壊れない体をつくりたい」と説明した。5月の夏場所千秋楽で大関・照ノ富士の小手投げに屈した際に右肘を痛めたが「もう治った」と問題がないことを強調した。6月26日に7月場所の番付発表がされ、番付上に大関として髙安の名前が載った。初土俵から所要73場所での大関昇進はこの時点で史上9位のスロー記録。7月場所の目標としては「ここから上(横綱)を目指すには優勝が必要になる。しっかりと15日間、堂々と相撲を取って優勝したい」と語った。7月場所は3日目の11日に相撲ジャーナリストの荒井太郎が「場所前の稽古で調子の良かった大関高安関が、13勝で優勝すると予想している」と述べており、実際10日目に勝ち越しを決めるなどここまでは順調であったが、11日目から14日目まで黒星続きと途端に崩れた。千秋楽の豪栄道戦では勝って連敗を4で止めたが、9勝6敗とやや振るわなかった。なお、この場所の初日には初顔の北勝富士に敗れており、2009年11月場所の日馬富士(対嘉風)以来昭和以降4回目となる新大関の初日に初顔に敗れた記録となった(新大関で初顔相手の対戦は10例目)。この日には豪栄道、照ノ富士も相次いで敗れており、初日に3大関全員に土がついたのは1978年9月場所以来の、三重ノ海、旭國、貴ノ花以来。2017年8月2日の夏巡業富山場所では体調不良で稽古土俵に上がらなかったものの、19日の札幌場所では錦木と、時間の関係でストップがかかるまで計16番の三番稽古を行った。前日は阿武咲と相撲を取るなど横綱、大関陣でただ1人、連日の稽古。「自分はやらないとダメになる。どんな状況でもやらないと、巡業の生活リズムが悪くなる」と当然のように話した。支度部屋でも貴ノ岩らとキャッチボールに興じて「汗かきますね」。力が有り余っている様子だった。 9月場所は初日白星。しかし2日目の玉鷲戦で玉鷲の激しい突き押しに防戦一方となり、半身になって右足一本で土俵に残ろうとした際右太ももを痛めた。髙安は負けて礼を行おうと土俵に戻ったが既にこの時は足を引きずっており、その後車椅子で相撲診療所へ向かった。その後、高安は「右大腿筋群損傷」の診断書を相撲協会に提出して休場、3日目の北勝富士戦は不戦敗。秋巡業を全休した高安は、その間に治療と並行してトレーニングを行った。ギプスが外れて松葉づえなしで歩けるようになったのは10月上旬。10月31日、福岡県大野城市の田子ノ浦部屋の九州場所稽古場で稀勢の里と稽古を行い、1勝10敗と稀勢の里の復調を印象付ける結果となった。大関3場所目でいきなり角番となった高安だが「気楽にやる。切羽詰まってやると、自分の相撲が取りきれない。今場所がダメなら来場所、という気持ちでやる」といい、今後は出稽古も見据えて調整していく方針を示した。歩けるようになった時期が遅いだけに、場所前の相撲雑誌の記事では11月場所での活躍の可能性は薄いと見られていた。 11月場所は初の角番だったが3日目の阿武咲戦で相手が足を滑らせる幸運な白星を収めたこともあって11日目に勝ち越しを決める。しかし12日目の取組で負傷。13日目から「右内転筋筋損傷で3週間程度の加療を要する」との診断書を提出して休場した。13日目の豪栄道戦は不戦敗。田子ノ浦によると「先場所と同じところを痛めた。歩くことはできるものの、相撲を取るのは厳しい。最後まで出てほしかったが、ここでけがが長引いて悪化したらいけないと判断した」という。大関としての真価が問われる2018年1月場所は7日目まで4勝3敗と前半もたついたものの、残りを全て勝って12勝3敗と自身初となる大関での二桁白星を果たすと同時に2差だが優勝次点を記録。続く3月場所は初日から連敗してしまうもその後12日目まで連勝し、2敗で優勝争い。しかし12日目に千代丸に敗れ連勝がストップ。優勝を逃してしまう。しかし、その後は再び連勝し、千秋楽は取り直しとなった一番で横綱・鶴竜を倒し、12勝3敗で2場所連続の優勝次点を記録した。4月3日の春巡業堺場所では三番稽古で阿炎、正代、関脇・御嶽海と計12番取って11勝。 5月場所は、初日より「左上腕三角筋部分断裂で約3週間の安静と加療を要する」との診断書とともに休場を届け出た。 2度目の角番で迎えた7月場所は、立ち合いの馬力が戻っておらず序盤で黒星を喫し、12日目に勝ち越し、9勝6敗で終えた。8月31日に行われた横綱審議委員会の稽古総見は腰痛などで回避したが、9月2日の時津風部屋への出稽古では部屋の豊山、同じく出稽古に来ていた朝乃山と相撲を合計19番取り、14勝した。髙安本人は稽古には「8分目くらいでしょう」とコメントした。 9月場所では初日から7連勝。8日目に正代に敗れて初黒星も、9日目に勝ち越し。10日目には同じ1敗の豪栄道に勝利したものの、翌日全勝の白鵬に敗れて2敗に後退。その後11勝まで星を伸ばしたが14日目、千秋楽と連敗して優勝とはならなかった。 11月場所は7日目までに2敗を喫するもその後は順調に星を伸ばしていき、10日目に勝ち越し、12日目に二桁勝利を挙げる。14日目には1敗の貴景勝に逆転で勝利し2敗で並ぶ。千秋楽、貴景勝が既に13勝目を挙げ、自身が勝利すれば決定戦となったが、長い相撲の末にすくい投げで御嶽海に敗れてまたしても優勝を逃してしまう。それでも自身最多タイの12勝3敗で場所を終えた。 2019年1月場所は、9日目を終えて4勝5敗であったが終盤巻き返し、9勝6敗。場所後の2月10日に行われた大相撲トーナメントで初優勝した。決勝戦で嘉風を寄り切った髙安は優勝賞金250万円の使い道について「体に投資します」とコメントした。 3月場所は、3日目に黒星も、安定した相撲内容で、9日目に勝ち越し。その後、横綱・鶴竜からしか白星を挙げれず失速したものの、2場所ぶりの2桁白星となる10勝5敗で場所を終えた。千秋楽に腰を痛めたため、途中から参加する運びとなった。4月18日の春巡業足立場所では栃煌山と三番稽古を行い、5勝4敗とあまり調子が上がらなかった。26日の青梅場所では逸ノ城との三番稽古で7勝1敗と調子を上げた。ところが5月6日の横綱審議委員会の稽古総見では、白鵬を除く三役以上の力士との申し合いで5勝11敗と不調が伝えられた。 5月場所は、初日に呆気なく破れると、6日目までに平幕に対して3敗。7日目から4連勝するが12日目に5敗目を喫したことによって優勝争いから完全に脱落したが、13日目には優勝争いのトップに立っている鶴竜を破り、千秋楽ではすでに大関復帰を決めていた栃ノ心を相手得意の四つで破るなど意地を見せたが、結局二桁白星には届かない9勝6敗で場所を終えることとなった。 7月場所は2日目に早々黒星も、その後6連勝。だが8日目の玉鷲戦で押し倒し、7勝目を挙げた際に玉鷲の小手投げで左肘を負傷、腕を庇いながら土俵を下りた。勝ち越しの掛かった9日目の正代戦は、サポーターを付けて対戦したが、土俵際の突き落としに敗れる。翌10日目の明生戦は、左を殆ど使わずに右腕から攻め続け、寄り切って8勝2敗と勝ち越した。しかし、左肘の怪我は思わしくなく、11日目の横綱・白鵬戦は「左肘関節内側側副靱帯断裂で約1カ月の休養、加療を要する見込み」で途中休場。これにより、昭和以降では初めて4大関が全員休場するという異常事態となる(角番の貴景勝は初日から全休で翌場所関脇陥落、栃ノ心と豪栄道は途中休場)。場所後の夏巡業は全休した。次の9月場所前になっても左肘は回復しない為に猛稽古が出来ず、当場所は初日から全休を表明する。 2019年10月28日、演歌歌手の杜このみと婚約したことが明らかになった。2人は2016年2月のNHK福祉大相撲で初めて会い、2017年5月に、田子ノ浦部屋の夏場所千秋楽パーティーで杜が細川たかしとともに招待され再会。同学年ということもあり意気投合し、ほどなく交際が始まり、2019年夏に高安がプロポーズしたとのこと。 ところが11月2日の佐渡ケ嶽部屋で行われた二所ノ関一門の連合稽古で、竜電ら平幕3人に計27番で13勝14敗と不調が伝えられた。怪我をしている左肘を庇う相撲から一門の理事の芝田山に「自分の形で稽古しないと場所中も中途半端になる。いまさら肘が『怖い』なんて言っていられない」と酷評された。 明治神宮例祭奉祝 奉納70回全日本力士選士権大会 相手は日馬富士関(2011年10月3日撮影) 靖国神社奉納大相撲 土俵入り(2017年4月17日撮影) 靖国神社奉納大相撲 相手は琴奬菊関(2017年4月17日撮影)
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大関昇進後
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新大関として迎えた9月場所には初日の髙安戦でいきなり黒星を喫する。2日目の豊ノ島戦では不戦勝による大関初白星を得たが、昇進後の初白星が不戦勝というケースは昭和以降初めてである。12日目には1敗を守り優勝争いをしていた新入幕の逸ノ城に破れた。6勝6敗で迎えた13日目の白鵬戦では勝利を収める奮闘を見せ、千秋楽での勝利によりようやく8勝7敗の勝ち越しを果たした。場所後の10月5日、相撲関係者を始めとして約1000人が集まった大規模な昇進披露宴が開催され、北の湖理事長や横綱審議委員会の松家里明らから激励を受けた。 しかし続く11月場所では振るわず、中日から5連敗と崩れて12日目に負け越し、5勝10敗と二桁黒星を喫した。2015年1月場所は大関3場所目で初の角番を迎えるが、12日目終了時点で5勝7敗と僅か在位3場所で大関陥落の大ピンチに陥ったものの、土壇場から3連勝して千秋楽に琴奨菊に勝利して8勝7敗と勝ち越し、辛うじてカド番を脱出した。 大関としては初めて地元の大阪府・3月場所を控え、場所前に「優勝争いに加わり13勝する」と公言し、初日から4連勝したものの、中盤以降崩れ8勝7敗であった。5月場所は12日目に白鵬に首投げで土をつける活躍を果たしたもののその1番で左肩を故障。13日目に勝ち越しを果たしたにもかかわらず、14日目に「左肩峰剥離骨折で約4週間の加療を要する見込み」との診断書を日本相撲協会に提出して休場した。 2015年7月場所、左肩のケガが完治せずも敢えて強行出場。初日からいきなり2連敗と苦戦を強いられたが、7日目に新大関・照ノ富士を下すなど持ち直して12日目に勝ち越し。その後白鵬・鶴竜の両横綱には敗れたが、千秋楽は稀勢の里を突き落とし、自身大関としては最高成績の9勝6敗で取り終えた。だが翌9月場所は、中盤以降黒星が先行するなど不調で、千秋楽に稀勢の里に寄り切られ7勝8敗、大関として2度目の皆勤負け越しを喫してしまった。次の11月場所は2度目の大関角番だったが、千秋楽の栃煌山戦で得意の首投げでぎりぎり8勝7敗と勝ち越して角番を脱出した。 2016年1月場所は前年11月場所前に傷めた右手首痛が悪化した影響からか、7日目からは9連敗、千秋楽には大関・琴奨菊に突き落とされ、2006年1月場所の栃東以来10年ぶりの日本出身力士による幕内優勝を献上する格好となった。最終的に大関昇進後ではワーストの4勝11敗に終わってしまい、ご当所・2016年3月場所は3度目の大関カド番となる。3月場所は好調で、5日目に琴勇輝に敗れた以外は白星を重ね、9日目に早々にカド番を脱出。11日目終了時点で10勝1敗で白鵬、稀勢の里と並び優勝争いのトップに立った。しかし12日目の白鵬との直接対決であっけなく敗北。その後も優勝争いに絡み続けたが、千秋楽で稀勢の里に敗れ、12勝3敗で終えた。それでも大関昇進後初の二桁勝利をあげる活躍をみせた。この場所は5日目の相撲で右太もも肉離れの重傷を負っており、蹲踞もできず他人の肩を借りないと歩けないほどであったが、人知れず複数の病院に出向き、痛み止めの注射を5本も打ち、栃木から気功師まで呼んで緊急処置を受け、土俵に立ち続けた。5月場所は初日から5連勝と好調な滑り出しだったが、6日目に琴勇輝に立合いが上手く合わずに敗れるとその後調子を崩し、9勝6敗の成績だった。この場所12日目の白鵬戦では左目眼窩内壁を骨折した。7月場所は12日目までに7勝を挙げるもそこから負け続け、7勝7敗で迎えた千秋楽も敗れ3連敗を喫し7勝8敗と負け越した。
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