大関取りへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:28 UTC 版)
2016年7月場所は、再小結で11勝4敗の好成績を挙げ、自身初めて技能賞を受賞した。翌9月場所は新関脇に昇進。一時は優勝争いするなど好調だったが終盤3連敗してしまい10勝5敗で場所を終えた。終盤の3連敗に対して「クソー」と言い残し、千秋楽の取組後の支度部屋では記者の質問に一切応じなかった。しかし翌11月場所は大関取りの場所となり、昇進を預かる審判部の二所ノ関部長は「優勝争いに絡み、悪くても(昇進目安とされる直前3場所合計の)33勝だ」と12勝を大関昇進のノルマに設定した。10月14日の秋巡業豊橋場所では照ノ富士と三番稽古をして12連勝と好調を示した。しかし11月場所は6日目までに3敗、後が無くなったが中日の4敗目でこの場所での大関取りに失敗。さらに10日目には6敗目を喫したことで大関取りを次の場所に持ち越すことが不可能になった。そして中日から連敗が5になり、12日目に負け越し、関脇からの陥落を確定させた。それでも13日目から残りをすべて勝って7勝8敗と意地を見せた。12月9日の冬巡業天草場所では千代の国、正代、佐藤(現・貴景勝)、栃煌山、豪風、輝を相手に12番取り8勝4敗、体重が増えたせいか今一つ動きにキレがなく、佐藤(現・貴景勝)の突き押しに動き負ける場面が見られると伝えられた。 2017年1月場所は再び東小結で白鵬、鶴竜の横綱2人と照ノ富士、豪栄道、琴奨菊の大関3人を倒す活躍を見せる。最終的には11勝、自身4度目の敢闘賞を受賞した。3月7日の田子ノ浦部屋の大阪場所の稽古場で30番連続で相撲を取って、横綱・稀勢の里と9勝14敗、出稽古に来た幕内・嘉風に6勝1敗と充実の稽古を行った。3月場所は関脇復帰。初日から同部屋の横綱・稀勢の里と共に10連勝。同じ部屋の力士による初日からの10連勝は、2004年3月場所の高砂部屋の横綱・朝青龍と当時平幕の朝赤龍以来13年ぶり。15日制定着後、同部屋の2関取のみが10戦全勝で並ぶのは史上初。しかし11日目から3連敗。それでもこの場所は12勝3敗で殊勲賞を獲得。4月21日、父親の出身地であり自身も幼少期に数年間住んだことがある茨城県水戸市での春巡業に参加。偶然にも、前夜に宿泊したホテルの目の前はかつて、両親がレストランを開いていた場所で、当時は記憶も定かでない幼稚園の前の時代だが「懐かしい。思い出しますね。何となく覚えている。思い出すのは、父親と散歩したことかな」と懐かしんだ。 5月場所前の5月2日には「初日から堂々とやって全勝を目指す」と強気の発言。2017年5月28日、5月場所を11勝4敗で終え34勝を記録し、取組後、12代二所ノ関(若嶋津)審判部長が高安の大関昇進を議題とした緊急の臨時理事会を要請したと発表。大関昇進が確実となった。5月31日、高安は大関昇進伝達式で「大関の名に恥じぬよう、正々堂々精進します」と力強く口上を述べた。昇進伝達式の直前に口上に関して高安は「自分が思っていることをストレートに言いたい。これからの覚悟や気持ちを込めて、伝えたいと思います」とコメントしており、昇進伝達式の後には口上に入れた「正々堂々」について三役に定着する一年ほど前から温めていた言葉であると明かし「一番好きな言葉。この言葉を胸にやってきて、こういう日を迎えられるようになったら使おうと思っていた」と説明した。大関昇進伝達式が行われた際、高安は次の7月場所について「やはりここ(大関)から上がるには、優勝しかない。目指してやります」と取材に答え、稀勢の里との優勝決定戦のイメージを問われ、10秒近く考え込んで「できたら最高ですね」と兄弟子超えの覚悟を決め、力強くうなずいた。四股名に関しては、新十両昇進の際に父親が当時の師匠に本名で相撲を取ってほしいと頼み、以降本名で定着しているので改名する意向はないと示した。
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