古書院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 19:44 UTC 版)
古書院は東西棟の入母屋造、杮葺の建物で、規模は東西7間半、南北5間半(「間」はここでは畳の長辺の長さ)、実寸は東西が15.8メートル、南北が10.9メートルである。正確には、建物の東西の軸線は南東方向に19度ほど振れており、これは寛永元年(1624年)の月の出の方位と一致しているという。入母屋屋根の妻側を池に向けており、妻飾りは木連格子(きつれごうし)とする。古書院の入口は北側にある中門である。中門を入ると杉苔で覆われた壺庭があり、切石を組み合わせた延段(敷石道)が古書院の玄関口である「御輿寄」(おこしよせ)へ向けて斜めに伸びる。この延段は「真の延段」と呼ばれる。ここで言う「真」は「真・行・草」(漢字の3書体)の「真」であり、「行の延段」は後述の「外腰掛」前、「草の延段」は笑意軒前にある。壺庭内には延段のほかに、自然石と切石を混ぜた飛石が打たれ、別名「切支丹燈籠」ともいう織部燈籠が立つ。御輿寄の手前には4段の幅の広い石段があり、その上に横長の沓脱石がある。この沓脱石は6人分の沓の幅があることから「六つ沓脱」と称される。石段、沓脱石ともに御影石製である。 古書院の間取りは、大小8室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。一の間・二の間の東には1間幅の広縁がある。縁は矩折れに一の間の南にも続くが、南側では幅が半間になる。広縁のさらに東には「月見台」と称する露台がある。中書院、新御殿が杉の面皮柱を使用するのに対し、古書院は松の角柱を使用し、内法上は鴨居のみで長押を省略するなど、全体に地味な意匠になる。内法上の壁も、中書院・新御殿が錆土を用いた色付壁とするのに対し、古書院は白の漆喰塗り壁である。この漆喰塗り壁は「パラリ壁」とも呼ばれ、天然醸造の消石灰を用いている。昭和の大修理に際しては、高知県から伝統製法の天然醸造による俵灰を取り寄せて用いた。一の間は10畳大で、うち1畳を畳床(たたみどこ)とする。一の間の床柱のみは角柱でなく杉の面皮柱を用いている。床壁の貼付や襖は桐紋を雲母刷した唐紙である。二の間は15畳。鑓の間は御輿寄(玄関)の南に続く10畳間で、室名は天井に鑓掛けがあることに由来する。囲炉裏の間は10畳間で、うち1畳分を囲炉裏とし、天井に煙出しを設ける。周囲は囲炉裏の飛び火を防ぐために襖でなく板戸を用いている。隣の御役席との境の板戸には彩色で諫鼓鶏(かんこどり)の図を描く。諫鼓とは、中国の伝説で、人民が天子に諫言をするときに打ち鳴らしたとされる太鼓のことである。諫鼓鶏とは、その諫鼓の上に鶏が止まっている、すなわち諫鼓を打つ必要がないような善政が行われていることの寓意である。この図は狩野永敬の筆とされるが確証はない。縁座敷には崇伝による『桂亭記』の扁額が掛かる。これはもとは縁の小壁に掛かっていたものである。二の間の東側、広縁のさらに先に月見台がある。池に面した6畳大、竹簀子張りのテラス状のスペースで、その名のとおり観月のための装置である。 古書院の建立年代については、中書院と同時期の建立かどうかを含めて諸説あったが、昭和の大修理の際の調査により、中書院との接続部の部材に残る改造痕跡などから、当初、古書院は単独の建物として存在しており、中書院は後から建て増しされたことが明らかとなった。古書院の建築年代は、様式的に中書院や新御殿より古く、『智仁親王御年暦』の記載などとも併せ、下桂村が八条宮の所領となって間もない元和元年(1615年)頃と推定されている。また、部材の風蝕痕から、御輿寄と膳組の間は当初は吹き放しの板間であったことが判明した。現在の囲炉裏の間と御役席も当初はもっと狭い部屋であった。昭和の修理時に、古書院の屋根の妻の懸魚にある六葉形が金箔押しであったことも判明し、修理後は金色に復元されている。
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