座敷飾り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
a91:『家屋雑考』の「出文机」(付書院)。 a92:『君台観左右帳記』にある付書院の座敷飾。 a93:『御飾書』にある床の間の座敷飾。 4点目の床、棚、書院(付書院)の発生とその発展・変化は、室町時代中期に第一次の完成が見られる。その例として足利義政の東山殿があげられるが、しかし足利義政の東山殿の座敷飾と、二条城に代表される書院造の座敷飾とは大きく異なる。 画像a91は『家屋雑考』にある「出文机」の絵である。「付書院」に「書院」の名が付いたのは後からで、鎌倉時代には「出文机」と呼ばれていた。「書院」とは元々は僧の居間、書斎の意味で、貴族社会で云う「学問所」と同じである。本来の機能は書を読むための机を、明かりを取り入れ易いように明障子とともに外に突きだしたものだが、足利義政の東山殿の頃には、そこに置く書物までが飾りとなる。『君台観左右帳記』に「書院飾次第」という項があるが、そこに書かれているのは書院造の座敷飾りではなく、画像a92のように「付書院」にどのような唐物をどのように飾るかである。「付書院」は読み書きの場ではなく、読み書きに関わる唐物宝物の陳列棚に使われている。 「床の間」という呼び方は後世のものだが、画像a93のように、東山殿当時には唐物の絵画・掛軸が三副も四副も並べ掛けて観賞する壁面だった。そしてその前には三具足を置くための押板が置かれる。あくまでも唐物の名物を飾る、陳列し、観賞することが主眼である。 東山殿の会所(画像a16)の「石山の間」には「押板」「トコ」「タナ」「ショイン」が揃うが、二条城のような並び方ではない。なによりも「石山の間」(五間:10畳相当)は建物北東の、納戸(塗籠)の隣のこの建物での主人の私的な空間、常居場、室町殿寝殿なら東北御髪所に相当する居間で主座敷ではない。主座敷である「嵯峨の間」(九間:18畳相当)には北側に「押板」があるだけである。座敷飾りの重点が主座敷よりも次ぎの間に置かれるのが中世での特徴である。 近世の書院造ではこれが逆転し、一の間に全てが集められる。そして「座敷飾り」という言葉の指すものが変わる。中世の「座敷飾り」は座敷に唐物名物を飾ることだったが、二条城に代表される近世の書院造では床、棚、付書院、帳台構が「座敷飾り」であり、支配者と披支配者の対面の場において、支配者の威厳、威光を高めるための舞台装置である。今日われわれが見るような床、棚、付書院、帳台構がセットになって座敷飾となるのは桃山時代に入ってからである。 「上段」は座敷飾とは云えないが、座敷飾とともに書院造の重要な特徴である。それについては太田博太郎の「上段の発生」という論文があり、そこでは寝殿造の時代には畳みの縁で身分を現していたが、畳敷詰めでそれが出来なく、あるいは目立たなくなったことから床の高さを高くする必要が生じたのではないかとする。
※この「座敷飾り」の解説は、「中世の寝殿造」の解説の一部です。
「座敷飾り」を含む「中世の寝殿造」の記事については、「中世の寝殿造」の概要を参照ください。
- 座敷飾りのページへのリンク