家屋雑考
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『家屋雑考』(かおくざっこう)は、沢田名垂の著作による、日本の歴史上の住宅についての解説書である。5巻。『百家説林』正篇下、『増訂故実叢書』中、に所収。
注記
- ^ 沢田名垂だけでなく江戸時代には間面記法に意味は忘れ去られており、それが再発見されるのは昭和になってからである(間面記法参照)。
- ^ 槐門(かいもん)とは大臣家の意
- ^ 例えば嘉保2年(1095)「散位従四位下大江公仲処分状案」(平安遺文1338)からの復元図である。「処分状案」に池の記載は無い。それに対して太田静六は「庭園関係については一言も触れていないが、南半部には御堂と書倉しか設けられなかった点からみても、南半部は園池であったことが解るので、南池や中島を持つ寝殿造式造園がなされたのであろう(太田静六1987、p.512)」と中島付きの大きな池を書き込む。中門廊も「処分状案」に記載は無いが太田静六は復元図に書き込む。
- ^ 微妙というのはこのような記述である。「最初の大蔵幕府の屋形にも寝殿、厩、小御所、釣殿等の寝殿造系統のものと侍所、問注所等の所謂武家造系統のものとの存在を知るのである。(田辺泰1929、p.116)」、「これによって見れば、前の鎌倉時代の幕府は、寝殿造の系統に属するもので、家の子郎党を置くに最も必要なる内外侍所其他武家特有のものを加えたことを認め得るに止まるが、室町時代の管領屋敷の屋形に至っては、前者と明らかに変化し、所謂武家造として完成されたものであることも亦認めらるるのである。(田辺泰1929、p.121)」。しかし侍所は侍廊と同じである。
ひとつには『吾妻鏡』に頼朝の大倉御所に十八間という侍所の記載があり、これを巨大な建築ととらえて寝殿造とは違うと感じたのかもしれない。しかし侍所は侍廊と同義であり寝殿造にはほぼ必ずある。廊なら大きくても梁間二間であり、頼朝の時代の関東なら柱間寸法は寝殿の一丈約3mよりも狭く2m程度である。建築物は梁間を増やすには高度な技術は要るが、桁行を伸ばすのは容易である。同じ作りをどんどん伸ばしていけば良い。
仁平2年(1152)神主従四位上賀茂縣主(あがたぬし)の「賀茂某家地譲状案」(平安遺文2771号)には敷地五段、つまり一町の半分16戸主の敷地に十三間廊が見えるし、十間程度ならざらにある。「侍」は武士の意味ではなく、「侍女」の「侍」、つまり屋敷の主人に仕える者の意味で、侍所=侍廊はお屋敷での執事の控え室である。
出典
- ^ 前田松韻1927-1、p.26
- ^ 加藤悠希2009
- ^ 前田松韻1927-1
- ^ 前田松韻1927-2
- ^ 田辺泰1929
- ^ 田辺泰1929、p.465
- ^ 田辺泰1935、p.77
- ^ 足立康1941
- ^ 太田静六1944、p.125
- ^ 太田静六1942
- ^ 堀口捨己1943、 pp.32-35
- ^ 堀口捨己1943、 p.32
- ^ 堀口捨己1943、p.35
- ^ 太田静六1944、p.124
- ^ 太田静六1987
- ^ 藤田勝也1999、p.132
- ^ 田辺泰1929、p.151より作成
- ^ 古事類苑、pp.420-426
- ^ 家屋雑考、pp.223-228
- ^ 川本重雄2005b、p.191
- ^ 古事類苑、p.422
- ^ 古事類苑、p.426
- ^ 田辺泰1935、p.151
- ^ 田辺泰1935、p.128
- ^ 江馬務1944、p.68-67
- ^ 太田静六1944、p.163
- ^ 堀口捨己1943、pp.5-6
- ^ 太田博太郎1947、p.76
- ^ 太田博太郎1972、p.109
- ^ 男衾三郎絵詞、pp.20-24
- ^ 西行物語絵巻、pp.3-11
- ^ 法然上人絵伝、上・p.3下段 - p.4上段
- ^ 平井聖1974、pp.86-91
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