里内裏の常態化とは? わかりやすく解説

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里内裏の常態化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)

寝殿造」の記事における「里内裏の常態化」の解説

永承3年(1048)11月焼亡後、内裏再建されたが、未使用のまま天喜6年(1058)2月焼亡した。1058年焼亡後の新造内裏への遷幸移徙)は1071年、実に13年後である。鳥羽天皇は僅か5歳即位したが、大嘗会など儀式があるときのみ内裏遷幸移徙)し、常住御所里内裏だった。太田博太郎9世紀から12世紀までの内裏使用期間をこうまとめる。 9世紀10世紀11世紀12世紀 99年 93年 33年 12年 太田博太郎は「内裏のようにつくりなして、内(内裏)いでくるまではおはしまさせんと急がせ給いなりけり」という堀河殿を始め枇杷殿、高陽院など、里内裏にするために内裏のように作った例も多く寝殿造里内裏その発展一因となったことは否めないという。比較詳細な復元図の描け寝殿造はそうした平安時代後期里内裏クラスのものである橋本義彦もこう書く。こうして名目的には内裏を「御本所」としながらも、「里亭皇居」に常住するようになると、「本披作皇居之家」の造営望まれひいてはその里第に内裏様態取り込まれるうになる寝殿造成立期10世紀中頃からというのは太田静六の言う正規寝殿造全盛期相当する。ただし太田静六が「正規寝殿造」としてイメージした左右対称な姿を証明する同時代史料は無い。堀口捨己戦時中否定した家屋雑考』(画像712)など、江戸時代に「理想的な絵として観念的に描き出され素描しかない。「それを固定的なイメージ把握することは危険である」と藤田勝也は言う。

※この「里内裏の常態化」の解説は、「寝殿造」の解説の一部です。
「里内裏の常態化」を含む「寝殿造」の記事については、「寝殿造」の概要を参照ください。

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