里内裏の常態化
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永承3年(1048)11月の焼亡後、内裏は再建されたが、未使用のまま天喜6年(1058)2月に焼亡した。1058年の焼亡後の新造内裏への遷幸(移徙)は1071年、実に13年後である。鳥羽天皇は僅か5歳で即位したが、大嘗会など儀式があるときのみ内裏に遷幸(移徙)し、常住の御所は里内裏だった。太田博太郎は9世紀から12世紀までの内裏の使用期間をこうまとめる。 9世紀10世紀11世紀12世紀 99年 93年 33年 12年 太田博太郎は「内裏のようにつくりなして、内(内裏)いでくるまではおはしまさせんと急がせ給いなりけり」という堀河殿を始め、枇杷殿、高陽院など、里内裏にするために内裏のように作った例も多く、寝殿造は里内裏がその発展の一因となったことは否めないという。比較的詳細な復元図の描ける寝殿造はそうした平安時代も後期の里内裏クラスのものである。橋本義彦もこう書く。こうして名目的には内裏を「御本所」としながらも、「里亭皇居」に常住するようになると、「本披作皇居之家」の造営が望まれ、ひいてはその里第に内裏の様態が取り込まれるようになる。 寝殿造の成立期を10世紀中頃からというのは太田静六の言う正規寝殿造の全盛期に相当する。ただし太田静六が「正規寝殿造」としてイメージした左右対称な姿を証明する同時代史料は無い。堀口捨己が戦時中に否定した『家屋雑考』(画像712)など、江戸時代に「理想的な絵として観念的に描き出された素描」しかない。「それを固定的なイメージで把握することは危険である」と藤田勝也は言う。
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