しんでん‐づくり【寝殿造(り)】
寝殿造
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 15:07 UTC 版)
寝殿造(しんでんづくり)とは、平安時代から中世にかけての建築様式である[9][10]。
注釈
- ^ 彷彿とは させるが、僧房を改造したものであるので寝殿造そのものではない。まず前面の弘庇部分に檜皮葺の庇を追加してはいるが、その奥は瓦葺きであり、斗拱(ときょう)も三斗である。
- ^ a b 馬道(めどう)とは長廊下の意味もあるが、この場合は屋根付きの土間の通路である。長い廊の中間の床を外し、馬が通れるようにすることもあるが、隣り合った別棟の建物の間に庇を伸ばすなどして、取り外しの出来る橋として厚板を渡したりする。
- ^ 頼長は儀式は東三条殿を使っており、寝殿母屋は儀式空間ではなく本当に居間・寝室と思われる。そのために北孫庇とはならなかった。
- ^ 東の泉殿は母屋・庇の構造なのかもしれないが、ここでは廊とした。母屋は通常二間だが一間の母屋の両側に庇という建物もある。
- ^ 太田静六も復元図を公表しているが(太田静六1987、p.691)、藤田盟児がそれを再検討し造営当時の姿をこのような形に復元した(藤田盟児2006、p.166)。日本建築学会編の現在の『日本建築史図集』(日本建築史図集2011、p.27)にはこの状態の後、中門廊代を追加した段階の藤田盟児案(藤田盟児1990)が掲載されている。寝殿と侍所の柱間寸法は10尺だが後付けの中門廊と持仏堂の柱間寸法は短い。
- ^ a b 「ハレ」(晴)と「ケ」(褻)の「ハレ」とは、「ハレの場」「晴着」の「晴」、表だった正式の場の意味である。それに対する「ケ」(褻)は日常の場を現す(川上貢1967,p.7)。例えば「褻衣」(けごろも)とは普段着とか部屋着・寝巻を指す。寝殿造においては儀式などにも使用する部分、寝殿だと母屋と南庇などを言い、それに対して北庇などを「ケ」(褻)の空間と呼ぶ。主に南北の軸である。一方で主に東西の軸に用いられる言葉に「礼」がある(飯淵康一2004,pp.294-300)。寝殿に対して正門側のことで、西に正門があれば「西礼の家」で、正門が東なら「東礼の家」と呼ばれる。
- ^ 「床」とはこの場合、玄関で靴をぬいで上がるその床である。
- ^ 太田静六は「一般貴族の邸宅までが瓦葺であったという実例は未だ一例も確認されていない」と言う(太田静六1987、p.29)。
- ^ 「丹土(につち)塗」とは一番身近には神社の鳥居のあの朱色である。より正確には薬師寺の複廊(画像150)や法隆寺講堂(画像212)などである。宇治平等院の朱色も現在は丹土塗に復元されている。ただし朱塗も複数あり、当時の朱塗りがどのようなものであったのかは必ずしも明らかではない(吉岡幸雄2000、p.21)。外国の使者が目にする大極殿、朝堂院などは朱塗にした。
- ^ 椅子は内裏では使っている。現在では椅子に分類されるものは「あぐら」と呼び、字は「呉床」「胡床」。その中に「交椅(こうい)」「倚子(いし)」「床子(しょうじ)」などがあり「床子」は官庁でも用いられた(小泉和子2015、p.47-49)。ただし政務も含めた儀式、公の場では大陸式が格式であったということで、現在の「洋風」「和風」といったような日常生活全てに関わる様式ではなかった。
- ^ 例えば唐招提寺の講堂は平城宮の建物のなかで現存する唯一の遺構で、大極殿や朝堂の南に位置した朝集殿が移築されたものだが、板床が貼られた痕跡は無い。東朝集殿時代の模型が平城宮跡資料館にある。
- ^ ただし、川本重雄は開放的であることを日本の特徴とはしない。日本でも江戸時代初期までの下層住宅は閉鎖的であり、そこから、寝殿造の源流を唐風の儀式建築に求める。
- ^ 中世から江戸初期頃までの間に建てられたと推定され「千年家」と称される古農家が3軒現存する。箱木家住宅、古井家住宅、横大路家住宅であるが、いずれも閉鎖的な建物である。
- ^ 「五間檜皮葺板敷東屋一宇在三面庇〈南五間懸板蔀五枚、東二間懸板蔀二枚、北三間懸板蔀三枚〉」(平安遺文、101号-1巻、p.88。〈 〉は割書を示す。)
この時代の「檜皮葺」は現在のものとは相当に異なるはずと推定されているが(原田多加司2004、pp.118-121)、しかし五位以上の貴族にのみ許されていた葺材である。 「板敷」は内部に土間が無いことを現しており、この時代には主屋、つまり寝殿だけかあるいはそれに準ずる建物にしか現れない。この当時の製材法は「打割製材」(竹中大工道具館2009、p.20)で、床板は長さが6m前後となると厚みは10cm程度ある高価なものである。「施入状」なので「東屋」と謙遜してはいるが屋敷の広さは一町とあり、かなりの上層階級である。 - ^ 本稿では柱間の数を表すときには数に漢字を用いることにする。
- ^ 奈良時代には梁間が柱4本の三間もある。奈良時代の藤原豊成の家(画像814)もそうであるが柱間寸法は桁行よりも梁間の方が短い。発掘調査でも平城京には梁間三間の例があり、奈良の僧房には元興寺のように 梁間三間 も現存する。しかし平安京では梁間三間は古制を守る内裏の紫宸殿が知られるだけである。
- ^ 具体的には水平方向1尺に対して垂直方向4寸5分(26.4度)程度が奈良時代、それが江戸時代には6寸(37度)前後と急勾配になる(原田多加司2003、p.287)。
- ^ 例として法隆寺聖霊院の内外陣を仕切る格子戸の細部寸法を見ると、框は見付け見込みとも30mm。格子部分は見付け24mm、見込み18mmである(高橋康夫1985、p.93)。
- ^ 「塗籠」と「納戸」は区別されることもされないこともある。例えば「帳台構」を「納戸構」ということもある。現在では「納戸」は「物置のような部屋」に近い使われ方をされるが、地方によっては今でも「寝室」を指すことがある。
- ^ 画像060で「客座」とあるのが一般に言う「公卿座」に該当する。
- ^ なお、対の屋根は寝殿と同じような入母屋屋根とイメージされる場合が多いが『年中行事絵巻』には南面の弘庇の屋根は、室生寺の金堂や宇治上神社拝殿、法隆寺の聖霊院のような縋破風(すがるはふ)に描かれている(画像511他)。
- ^ 枇杷殿、堀河殿共に里内裏となった第一級の寝殿造である。枇杷殿ではその後長和2年(1013)、長和4年(1015)にも「東対代」が出てくる(太田静六1987、p.197)。
- ^ 『中右記』には康和5年(1103)正月26日、高松殿で西中門南廊が院殿上になったとあるので、そのときには中門南廊にも床が張られていたことになる(藤田勝也2003、pp.176-177)(中右記、2巻、pp.258-259)。
- ^ ただし玄関の直接の源流には主殿造の「色台」(式台)も絡み単純ではない。
- ^ 例えば園城寺の光浄院客殿など。
- ^ 当時の社会のランクは位階ももちろん重要な要素だか、もうひとつ大臣、公卿、殿上人、諸大夫、侍、凡下・雑人という階層があり、「凡下・雑人」が庶民である。寝殿造の時代においてその階級と位階は若干ずれている。例えば公卿は普通三位以上と言われるが、それはおおよそであって四位でも参議の官職にある者は公卿である(和田英松1926,p.254)。
- ^ もちろんこれは絵巻的なデフォルメである。この絵は法然の母が法然を妊るシーンなのだが、実際には寝殿での寝所は北側であって南を寝所にするということはない(小泉和子1996a、p.155)。そもそも蔀も明障子も開け放して同衾するなどあり得ないのだが、それらを忠実に書いては物語上の説明にならない。なお、この茅葺・板葺のまるで農家のような小さな寝殿は、都の貴族ではなく地方の在地領主の表現である。この後の法然生誕のシーンや、父時国臨終の場面などではずっと広い、寝殿というより後の書院造の方に近い主殿のように描かれている(法然上人絵伝、pp.5-10)。
- ^ 例えば藤原道長の有名な土御門殿である(藤田勝也2005、p.51)。
- ^ この部分には時代により意味が変わる二つの言葉が出てくる。まず「職事」(しきじ)だが、平安時代前半には官職に就いている者を「職事」といった。しかし平安時代末から鎌倉時代のこの口伝の中では「大臣」「大納言已下(大臣以外の公卿)」と「諸大夫」の間に出てくる。その位置に相当するものは「殿上人」である。
次に「家礼」で、後には「家来」の字を宛てるようになるが、平安時代においては有職故実などの家庭教師役であり(国史大辞典1999、「家来」の項の「家礼」の記述)、例え諸大夫であっても教授する者で従属的身分ではなかった。従ってこの文でも「家礼」は他の諸大夫とは別格になっている。なお『三条中山口伝』の「三条中山」とは三条実房と『山槐記』の中山忠親である。 - ^ ここで言う閑院は東三条殿焼失後の仁安2年(1167)12月に摂政藤原基房により新造されたもので、翌年の2月に高倉天皇がここで即位し、そのまま里内裏とした。その後、安徳天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇まで代々里内裏とし、承元2年(1208)に焼失した。
- ^ 太田博太郎は1941年に『建築史』3-3 に発表した「公家住宅の発展とその衰退」を『日本建築史論集2-日本住宅史の研究』(1984)に収録する際に「付記」を追加し、その中で『中右記』の「如法一町屋」の片方が対代で、厳密には左右対称ではないことを認めているが、川本重雄のいう「むしろその方が寝殿造の完成像(典型像)」という言い方には否定的である(太田博太郎1984、p.412-414)。
- ^ 藤田はこの部分について2012年に「 『日本建築史』(昭和堂、1999年)の第五章において、「寝殿造の故実化」ととらえ、しかしそれは「寝殿造からの観点にもとづく」ものと評した。ただし、こうした一定の形式が定着した時期をもって「寝殿造の形骸化」としたことには、なお再考の余地がある」と保留している(藤田勝也2012、p.89、p.108、注25)。
出典
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[続きの解説]
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