寝殿の上とは? わかりやすく解説

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寝殿の上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/09 06:39 UTC 版)

寝殿の上(しんでんのうえ、970年代 - ?)は平安時代中期の女性。名は三の君としても知られる[1]

生涯

藤原為光の三女で、母は藤原伊尹の娘。生年は定かではないが、母・伊伊の娘は為光の本妻・藤原敦敏の娘が 安和2年(969年)に忯子を出産してまもなく亡くなった後、伊伊と為光の結びつきの一環として後妻になったとみられ、天禄3年(972年)の伊伊薨御と同年には道信が生まれていることから前年までには結婚していたことが分かる。天元2年(979年)には妹の穠子が誕生していることから、それ以前の生まれとなり、970年代の生まれであることは確実である。『尊卑分脈』によれば、左大臣源雅信の妻になったとされる。寛和元年(985年)には母・伊伊の娘、正暦3年(992年)には父・為光、正暦4年(993年)には夫・雅信が亡くなり、寝殿の上は頼るべき両親、夫を全員亡くしてしまう。ただし、寝殿の上は為光が娘婿として伊伊から受け継いだ屋敷・一条殿を受け継ぎ、同母妹の藤原儼子(四の君)などを住まわせている。その後、藤原伊周の妾となり伊周は一条殿に通うようになる。しかし、長徳2年(996年)、花山法皇が妾・儼子の元に通っていたのを寝殿の上に通っているのと勘違いした伊周は弟の藤原隆家に相談し、長徳の変に発展した[2]。そして、伊周は隆家と共に流罪となり左遷されてしまう。その後伊周の母方の叔母・高階光子の夫である佐伯公行に一条殿を8000石で売却し、佐伯公行は東三条院(藤原詮子)に一条殿を献上しているため、一条殿は詮子の所有となり、その後一条院と名を変えている。一条院は一条天皇の里内裏、ついには退位後の一条天皇の御所となる。火事に見舞われ再建されているため、寝殿の上所有時の建物ではなかったものの、一条天皇はこの一条院で生涯を閉じており、奇しくも一条天皇の最愛の皇后で伊周の同母妹でもある定子の悲劇の始まりとなった場所で最後の時を迎えることとなった。

雅信と伊周の間に子はなかった。二人の同母妹・儼子と穠子(元源兼資妻)は三条天皇中宮妍子女房を経て道長の妾となり、いずれも妊娠している(儼子は長和5年(1016年1月21日に道長の子を産むが死産で、儼子も同日に亡くなった。穠子は想像妊娠だったとようで、再び女房として活動しており、三条天皇と妍子の娘・禎子内親王にも女房として仕え、万寿2年(1025年)に亡くなった。)。一条殿売却後の寝殿の上の動向は不明。

関連作品

テレビドラマ

脚注

参考文献

  • 『平安中期文学の研究』(桜楓社 、1988年、188p)
  • 『平安京の邸第』(望稜舎 、1987年、321p)

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