寝殿造と書院造の違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
「中世の寝殿造」の記事における「寝殿造と書院造の違い」の解説
「書院造」という言葉は「寝殿造」と同じく、江戸時代末期、天保13年(1842)儒学者沢田名垂の『家屋雑考』によるものである。書院造の完成を先の図(画像a50)では聚楽第と置くが、それは画像a71のように具体的な平面図が残っていることと、座敷飾を一ヶ所に集めたこと、そして何よりも後世への影響の大きさである。画像a70は江戸時代初期の木割書『匠明』の図であるが、その時代には「書院造」という言葉はなく「広間」あるいは「主殿」と呼んでいる。 「書院造」がどこから始まるかについては人により見解が異なる。例えば川上貢は「書院造は近世初頭の武家大名の居館に、大規模なものがつくられ、典型の成立をみる」と書く。一方で平井聖は園城寺の光浄院客殿や、『匠明』掲載の主殿の図のように中門(廊)を備えるものは江戸初期においても「主殿造」と呼び、「書院」という名称が広まる明暦の大火以降を「書院造」と呼ぶ。その時代での呼ばれ方という点では平井聖の方が正確だが、ここでは一般的な川上貢、堀口捨己や太田博太郎の説に沿って区切る。 「書院造」の定義について堀口捨己は「母屋と庇との区分」と云う寝殿造の条件がなくなることに加えて次の4点をあげる。 間取りが細かになり、建物の連り、組み立てが複雑になったこと 部屋の床仕上が畳敷き詰めとなったこと 建具が蔀戸から次第に遣戸に遷って行ったこと 床、棚、書院が座敷飾りの場として新しく加えられたこと 藤田盟児は平面の構成の変化を更に詳しく分析し、二列の対座でなく、追い回し敷きという新たな着座形式と、続き間という空間構成が書院造の前提として成立し、その続き間の上に座敷飾りを備えた主室と、下に中門(廊)と公卿座からなる出入り口を配した段階で、最初の書院造建築が完成したとしても良いのではないかと云う。
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