寝殿造りと建具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
平安時代の貴族の邸宅の典型は、寝殿造りである。寝殿造りの建物は、現存していないが、京都御所の紫宸殿と清涼殿は、平安時代後期の形式を再現しているという。 平安宮内裏の正殿である紫宸殿は、正面九間の母屋の四方に廂(ひさし)の間を設けた間取りであり、外部との仕切りの建具は四隅と北廂中央に妻戸を開く他、柱間に一枚の大きな蔀戸を設け、昼間は内側に釣り上げて開く。 妻戸とは、扉の事で、建物に対して、妻のような役割から妻戸という。紫宸殿の妻戸は、二枚の板を接ぎ合せ、裏桟の替わりに上下に端喰み(はしばみ)という細長い台形の横板を入れて板を固定したもので、手のこんだ作りとなっている。 蔀(しとみ)戸は、格子を組み間に板を挟む板戸で、水平に跳ね上げて開く。内部の仕切りとして、母屋と北廂の間の境に「賢聖の障子」を設け、母屋と西廂の間は壁で仕切られている。この障子は、今日の明かり障子ではなく、絹布を貼った可動式の嵌め込み式の板壁で室礼(しつらい)として用いられ、時に応じて設置されるものであった。絹布に賢聖を描いていたので、「賢聖の障子」の名がある。紫宸殿は、平安京の大内裏の正殿で、朝賀・公事を行なう所で、のち大礼も行なわれた。 そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に「障子戸」が設けられていたという。その外はすべて蔀戸で仕切られているが、これ以外に仕切りの無い広間様式である。 清涼殿は、天皇の起臥する室であったので、細かく仕切られているが、建具の使用状況は、紫宸殿と同じで、側面と塗篭めに妻戸(とびら)を設け周囲は蔀戸を釣っていた。塗篭めは、周囲を厚く土壁で塗りこめた部屋で、納戸や寝室として使われた。この他、東孫廂(まごひさし)の見通しを遮るために「昆明池の障子」が置かれていた。この障子は、衝立てで、漢の武帝が水軍訓練のため、長安城の西に掘らせた昆明池を描いた衝立てである。さらに、春夏秋冬の儀式を描き上げた年中行事障子(衝立障子)が、殿上の間の戸口の前に置かれていた。 「障子」とは古くは、間仕切りの総称であった。「障」とは、間をさえぎるの意であり、「子」は小さいものや道具につけられる接尾語である。衝立、屏風(びょうぶ)、簾(みす)、几帳あるいは、室外との仕切の唐戸(扉の一種)、舞良戸(板戸の一種)、蔀戸等の総称であった。
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