寝殿の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
小御所・小寝殿で建築構造の変化が始まる鎌倉時代後半以降も、寝殿ではかろうじて「母屋・庇の構造」(画像110)を一部に維持してはいる。ただしそれは寝殿のハレ面、南半分においてであり、寝殿の北側にははっきりとした変化が見られるようになる。以下オレンジと黄色が母屋・庇構造を残している部分である。 a21:常盤井殿・寝殿延慶4年(1311) a22:室町殿・寝殿永享4年(1432) a23:応永度清涼殿(1402-1443) a24:里坊・十楽院(全体)(14世紀前半) 常盤井殿・寝殿: 画像a21は『公衡公記』「御産愚記第四」延慶4年(1311)2月23日条にある指図から起こした常盤井殿の平面図である。西園寺公衡はこのとき姫宮を出産した広義門院の父で、左大臣としてこの院御所に直廬を持ち、産所等の室礼を指揮している。従ってこの指図の信頼性は高い。「三間四面北孫庇付」と「間面記法」で表現出来るのだが、寝殿の北側は変化を始めている。細かく仕切られていることもそのひとつだが、本来は北庇と長押1段下がった北孫庇であるはずの部分が連続して使われている。つまり北庇と北孫庇が一体化し、同一床面としたうえで用途毎に間仕切りされている。 室町殿・寝殿: 画像a22は足利義教の寝殿で「室町殿御亭大饗指図」から起こした画像080の一部分である。この屋敷は永享4年(1432)に一万貫の予算で建設された当時最上級の屋敷である。正応元年(1288)10月27日の近衛殿大饗指図(画像070)と非常に高い類似性を持つと云われるが、それは正門から寝殿までの配置についてであり、寝殿だけを見ると全く違う。 室町殿の寝殿はもはや「間面記法」では表現出来ない。母屋の北は梁間が三間もある。その梁間三間には内側に柱の無い部分の方が多い。奈良時代以来の「母屋・庇の構造」「側柱と入側柱」により、屋根の小屋組を支える構造(画像110)では無くなっている。桁行七間、梁行六間というとかなり大きな寝殿に見えるが、実は柱間寸法は7~7.5尺と狭い。「九間」つまり三間×三間の部屋とは相当立派な太い梁を使っているように見えるが、柱間7.5尺の三間は柱間11尺の二間とほとんど同じである。つまり小御所は新技法で建てるが寝殿は旧来技法というのではなしに、屋根の小屋組を支える架構自体は寝殿においても新技法が採用されており、南半分での母屋と庇は単に儀式空間としてレイアウトされているだけで、屋根を支える構造とは何の関係もない。 応永度内裏の清涼殿: 画像a23は応永度(1402-1443)土御門東洞院内裏の清涼殿である。同じような傾向はこの前の建武度(1337-1401)寝殿、この後の康正度(1455-)内裏の清涼殿にも見られる。清涼殿は東がハレだが、その東面だけに母屋・庇のレイアウトを残す。この応永度内裏の清涼殿は七間四方の正方形であり、その内東面の母屋・庇のレイアウトは三間と半分以下である。西側四間は母屋・庇とは全く関係無しにレイアウトされている。 門跡青蓮院の里坊・十楽院: 画像a24は鎌倉時代末から南北朝期の十楽院全体図である。北側の雑舎まで含めて描かれた唯一の配置図でもある。青蓮院はほとんどが法親王、希に摂家の子弟や室町将軍・足利義満の子が門主を務め、天台座主となる門跡だが、中門廊に公卿座(対代廊)、二棟廊と後期寝殿造の上層の要件は残しつつも、「母屋・庇の構造」(画像110)は小御所では完全に消え、寝殿では片鱗は止めているもののあまり明確ではない。柱間寸法は広いものと狭いものの二種類あり作図上2対1にしたが、藤田盟児は7尺を基本として広いのは10尺ではないかとする。 なお、僧の屋敷を寝殿造の中であつかうのは、この当時の門跡は天皇や摂関家の子弟、院家も公卿の子弟であり、貴族社会の一員であるからである。現に「海人藻芥」には大臣の屋敷、公卿の屋敷について例えば四足門を建てられるかどうかなど屋敷の格式のきまりがしるされているが、法親王家の門跡は大臣邸と同じ格で、院家は公卿の邸の格式と同じとある。
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