寝技中心の柔道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 06:35 UTC 版)
ルールの最も大きな特徴は、寝技において、明らかに進展がないときに審判が「待て」とする規定がないことである。このため寝技が重要な要素となる柔道となっている。 また、寝技への引き込みが認められている。普通の柔道は投技を掛けてもつれたときのみに寝技への移行が許されているが、七帝柔道では自由に寝技にいける。そのため、試合が始まるや、立技を掛けることなく、どちらかが引き込んで寝技になることが多い(もちろん立技で投げれば投げの一本勝ちも認められるので、立技の強者が活躍することもある)。 このように寝技に特化していったのは、15人戦という多人数のチーム編成のため、各大学とも白帯を多数入部させ部員の半数近くが大学から柔道を始める初心者で占めることも大きな理由であるとされる。寝技は立技よりも天賦の才に左右される部分が少なく、かつ短期間で技術の向上ができるため、高専柔道以来、寝技中心に移行していった。そして寝技の技術が異常に発達していく。例えば後にプロ修斗に転向して活躍する中井祐樹(後述)も大学から柔道を始め、わずか4年間の練習で突出した寝技技術を身に着け、後にヒクソン・グレイシーと戦うようにまでなる。 高校までまったくスポーツ経験のない小柄な選手が、高校時代に実績を残した既成の有名選手を卒業時に実力で抜いてしまうこともよくある。これらは寝技が研究と練習によって進歩できることを証明している。サッカーや野球、テニスなど他のスポーツからの転向組も多く、各大学とも新入部員の3割から5割を柔道未経験組が占める。。 戦後の七帝柔道でも、SRT(スーパーローリングサンダー、遠藤返し)などの新技術が多く開発されている。また寝技技術が傑出しているが立技を禁止しているルールではないので、高校時代に身に着けた立技を武器に戦う選手もいる。そういった選手は寝技でも自信をつけることによって、投げてもつれて倒れた時に相手の下になったりすることを怖がらなくなるため、かえって立技の切れ味が増すという。 試合は15人の団体戦で、勝ったものが勝ち残り、次の人間と戦っていく、いわゆる抜き勝負である。高専柔道と七帝柔道が寝技中心の技術体系になっていったのは、立技(投技)は何かのミスで投げられて失点することがあることもひとつの理由である。 試合時間も一般の柔道のそれより長く、先鋒から3将(13番目の選手)までが6分、副将と大将は8分である。「有効」や「効果」といったポイントはなく、勝負は一本勝ちのみによって決する。1試合終えるのに2時間以上かかる。 寝技で膠着しても審判は「待て」をかけないので、延々と寝技の攻防が続く。「場外」という概念がなく、試合者が会場の縁で攻防していると、主審に「そのまま」と試合を止められ、試合場中央で同じ体勢に組み合って「よし」で試合再開となる。 15人を終えて大将決戦になり引き分けになると、両校が代表選手を選んで出し、8分の代表戦を行う。これも引き分ければまた代表を選び代表戦を延々と繰り返す。何度でも勝負が決するまで繰り返し続けるが、試合会場の使用時間の関係で試合を打ち切る場合がある。昭和39年の第13回大会の決勝戦、北大vs九大がそうであった。この試合は代表戦を繰り返し、延々4時間以上かけて深夜10時を過ぎても決着がつかない死闘となり、大会初の両校同時優勝が決まった。これはもちろん戦後の柔道試合の最長時間記録であった。
※この「寝技中心の柔道」の解説は、「七帝柔道」の解説の一部です。
「寝技中心の柔道」を含む「七帝柔道」の記事については、「七帝柔道」の概要を参照ください。
寝技中心の柔道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 14:37 UTC 版)
ルールの最も大きな特徴は、寝技において、明らかに進展がないときに審判が「待て」とする規定がないことである。このため寝技が重要な要素となる柔道となっている。また、寝技への引き込みが認められている。普通の柔道は投技を掛けてもつれたときのみに寝技への移行が許されているが、高専柔道では自由に寝技にいける。そのため、試合が始まるや、立技を掛けることなく、どちらかが引き込んで寝技になることが多い投技で投げれば投げの一本勝ちも認められるので、立技の強者が活躍することもある。 このように寝技に特化していったのは、多人数団体戦の抜き勝負のため、各校とも白帯を多数入部させ部員の半数近くが大学から柔道を始める初心者で占めることも大きな理由であるとされる。寝技は立技よりも天賦の才に左右される部分が少なく、かつ短期間で技術の向上ができるため、寝技中心に移行していった。そして寝技の技術が異常に発達していく。 また、足挟み(ヘッドシザース)が禁止されていた。寝技の「待て」がなく、足挟みを許していると足挟みのままの膠着が多くなってしまうのであった。ノンフィクションライターの増田俊也によると三角絞はこのルールがあったからこそ、その隙をついて生れたものだとしている。 入学までまったくスポーツ経験のない小柄な選手が、入学前に実績を残した既成の有名選手を卒業時に実力で抜いてしまうこともよくある。これらは寝技が研究と練習によって進歩できることを証明している。。 1941年以降、講道館柔道で寝技への引き込みが禁止されているのは、高専柔道の強豪校のひとつ六高が警視庁との団体戦で圧勝したり講道館紅白試合で寝技に引きずり込んで大勢を抜き去ったりする事件が続出したためである。この高専柔道の寝技偏重の姿勢を嫌った講道館がルールを変えてまで寝技の封じ込めをしてしまった。いかにかつての高専柔道の寝技技術が突出していたかがわかる。 講道館柔道やブラジリアン柔術、総合格闘技(MMA)などで使われている三角絞など各種絞技・関節技の多くは、もともとこの高専柔道で旧制高校生や帝大生によって開発された新技術であった。のちに柔道で禁止されていた脚への関節技、膝十字なども高専柔道で開発された新技術であった。その新技術開発合戦はとてつもなく高いレベルで争われていた。高専大会には毎年各校が新技術を引っさげて出場した。 寝技で膠着しても審判は「待て」をかけないので、延々と寝技の攻防が続く。「場外」という概念がなく、試合者が会場の縁で攻防していると、主審に「そのまま」と試合を止められ、試合場中央で同じ体勢に組み合って「よし」で試合再開となる。
※この「寝技中心の柔道」の解説は、「高専柔道」の解説の一部です。
「寝技中心の柔道」を含む「高専柔道」の記事については、「高専柔道」の概要を参照ください。
- 寝技中心の柔道のページへのリンク