南庭と池
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
寝殿の南庭には大きな池があって中島もあるというのが『家屋雑考』(画像711)のイメージである。東三条殿(画像030)や、藤原道長の土御門殿など、イメージ通りの寝殿造もあるが、一方『中右記』で「如法一町家」と呼ばれたほどの上級の四つの屋敷の内、すぐに焼けてしまって実態の判らない1件を除く3件には池は無い。11世紀末の関白藤原師実の大炊殿、12世紀初頭に白河法皇がしばしば御所として使った院近臣・藤原顕季の高松殿にも南池は無い。藤田勝也は南池の企画・造営は個々の亭の事情によるのではないかという。 橘俊綱が書いたとされる『作庭記』にはこうある。「南庭ををく事は、階隠の外のハしら(柱)より、池の汀にいたるまで六七丈(18~21m)、若内裏儀式ならば、八九丈(24~27m)にもをよぶべし。礼拝事用意あるべきゆへ也」。ここでいう「礼拝事」とは古代以来鎌倉時代までの臣従儀礼のことである。 『江家次第』に記されている紫宸殿で行われた「元日節会」では、紫宸殿の天皇と皇太子に対して、南庭左右に親王、大臣、大納言以下五位以上の王や臣まで10列以上並んで拝礼し、そのあと饗宴が始まる。庭というより地面から床上の者への拝礼である。「若内裏儀式ならば」とは「里内裏となる屋敷ならば」ということである。「階隠」は寝殿南中央の階段を覆う屋根で、「階隠の外の柱」は画像010で言うと階段下の両側の柱である。 屋敷の主が大臣の場合には先に出てきた正月大饗などの最初に庭での再拝がある。庭からの再拝を床上で受けるのは天皇とそれに準じる者だけで、大臣の正月大饗の場合には招いた大臣も庭に降りて礼を受けるが。大饗はその再拝に始まり、そのあと床上での饗宴、そして最後に禄、つまり引出物が渡され、受けた者の内、下位の弁・少納言、外記・史は庭におりて床上の大臣に会釈をし、外記・史はそのまま退出。弁・少納言はまた寝殿に戻り饗宴が続く。南庭はそうした臣従儀礼の場であり、『作庭記』にある広さはその儀式に必要なスペースを示している。後の書院造の時代には臣従儀礼は床上の広間での接見に変わり、『作庭記』にあるような広さは不要になって草木が建物に近づき、現在イメージされる日本庭園となる。
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