その他の廃止線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:01 UTC 版)
向ヶ丘索道線:向ヶ丘遊園内で運行されていた普通索道(ロープウェイ)である。 新宿省社連絡線:1944年(昭和19年)8月、小田原線下り線路と国鉄中央緩行線下り線路の間に造られた連絡線。戦時中は、国鉄から小田急への車輛貸し出しに使われた線路であった。戦後は深夜1回の貨車受け渡しのほか、1951年(昭和26年)2月に小田急で行われたカルダン駆動の電車の走行テストを相武台にて実施する試験車両が、この線路を通ったほか、機材輸送のため、国鉄大井工場 - 小田急経堂工場間に配給電車や日本車輌製造蕨工場にて作られた新造車の搬入もこの線路が使われた。その後、1960年(昭和35年)2月に1100形の4両を日立電鉄へ譲渡した際に使われたのを最後に、連絡線は使われなくなり、1963年(昭和38年)7月7日に撤去となった。 代田連絡線:大東急時代に設置された小田原線と井の頭線を結んでいた線路。大東急解体後は、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)所有となった。 南武連絡線:1935年(昭和10年)9月に小田原急行鉄道と南武鉄道(現・南武線)の間で協定が結ばれ、作られた連絡線。主に、小田急の座間駅(現・相武台前駅)にて集荷した砂利を横浜・川崎方面に輸送するために設けられた線路で、1936年(昭和11年)初頭に設けられた。連絡線は、砂利輸送を目的とするものであったが、電車のやりとりも行われた。しかし、1944年に南武鉄道が国有化され南武線となると電車のやりとりはなくなり、稲城長沼駅付近にあった弾薬庫からの輸送のため、小田急(当時は、大東急)所有の無蓋貨車がこの線路を使い貸し出され南武線を走った。戦後は、1947年(昭和22年)5月に小田急の1600形が南武線に貸し出される際に使用されるなどしたが、その後使われなくなり、1961年(昭和36年)に川崎市が市道を造成することとなったことから、1967年(昭和42年)3月、廃止された。 砂利軌道・砂利側線:相模川で採取した砂利を運搬するためにかつて存在していたいくつかの路線のうち、762mm軌間の2つの軌道は小田急が保有・運行(後に別会社に委託)していたものであり、座間駅(現・相武台前駅)から新磯鉱区へ至るものと、座間市新田宿付近から新田宿鉱区へ至るものであった。後に前者は相模線相武台下駅から新磯鉱区まで、後者は同じく入谷駅から新田宿鉱区までの区間に変更されている。また、螢田駅から酒匂川の河岸へ、新松田駅から川音川の河岸への砂利運搬用の側線がそれぞれ敷設されていた。
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