ロシア帝国の成立(1682年 - 1725年)
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「ロシア帝国の成立(1682年 - 1725年)」の解説
詳細は「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」および「大北方戦争」を参照 フョードル3世(在位1676年 - 1682年)の短い治世の後、幼い彼の異母弟ピョートル1世(在位1682年 - 1725年)が即位するが、ストレリツィの蜂起 (1682年)(ロシア語版、英語版)によってピョートル1世の外戚ナルイシキン家が粛清され、イヴァン5世(在位1682年 - 1696年)との共同統治となり、姉ソフィアが摂政として実権を握った。ソフィアの摂政政府は進歩的政策を採ったが、クリミア遠征の失敗によって信望を失って失脚し、ナルイシキン家が政権に復帰した。母后ナタリヤの摂政を経て、1694年にピョートル1世の親政が始まった。イヴァン5世が1696年に死去したことにより、ピョートル1世の単独統治となった。 当初、ピョートル1世の軍事的努力はオスマン帝国に向けられ、1695年にアゾフ要塞を攻撃するが失敗した。翌1696年にロシア初となる本格的な海軍を編成して再度攻撃を行い、攻略に成功した。その後、1697年から1698年にかけて1年以上、ヨーロッパ視察旅行(大使節団)を行い、西欧の先進技術を学んだ。1698年、ストレリツィの蜂起 (1698年)(英語版)が再発。 ピョートル1世の関心は北方に向けられる。当時のロシアには白海沿岸の年間9か月も凍結するアルハンゲリスクを除いて確固とした港がなく、バルト海へのアクセスはスウェーデンによって塞がれていた。「海への窓」を求めるピョートル1世はザクセン、ポーランド・リトアニアそしてデンマークとの北方同盟を結び、1700年にスウェーデンとの大北方戦争(1700年 - 1721年)に突入した。だが、開戦早々に北方同盟はカール12世率いるスウェーデン軍に敗北を重ね、デンマークは脱落し、ロシア軍はナルヴァの戦いで惨敗を喫する。この後、カール12世がポーランド・リトアニアを転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得た。ロシア軍はスウェーデン軍主力が不在のイングリア、エストニアそしてリヴォニアを制圧する。 1707年、ポーランド・リトアニアおよびザクセンを屈服させたカール12世はロシア侵攻を開始するが、焦土戦術に苦しめられた。1708年にサポロジェ・カザークのイヴァン・マゼーパがロシアから離反してカール12世と同盟するが、ロシア軍の急襲によってヘーチマン国家首都バトゥールィンを占領されてしまう。1709年、ウクライナ東部のポルタヴァの戦いでスウェーデン軍は壊滅して、カール12世とマゼーパはオスマン帝国領に逃れた。ピョートル1世はカール12世を追ってオスマン帝国と開戦するが、プルト川の戦いでオスマン軍に窮地に追い込まれ、プルト条約でアゾフの返還を余儀なくされている。戦争はなお10年以上続くが、北方同盟の優位は揺るがず、ロシア陸軍はフィンランドを制圧、海軍はガングートの海戦で勝利してバルト海の制海権を確保した。 1718年にカール12世がノルウェーで戦死しており、1721年に疲弊したスウェーデンが講和を乞うたことで戦争は終結した。ニスタット条約でピョートル1世はカレリア東部、イングリア、エストニア、リヴォニアを獲得し、バルト海への出口を確保した。彼はこの地にモスクワに代わる新たな首都サンクトペテルブルクを建設した。大北方戦争終結時、ロシアは北方での最強国となり、ヨーロッパにおいての列強国の仲間入りを果たすこととなった。 ピョートル1世は政府を近代化させ、ロシアの専制国家体制を確立した。西欧化改革を進め、キリスト紀元の採用、キリル文字の簡素化さらには髭に税を課し、西欧風の服装を義務付けた。行政改革として貴族議会を廃止して、9名からなる元老院に代えさせた。イヴァン4世以来の官署制が廃止されて参議会(ロシア語版)制度に改められ、官等表を定めて官僚制度を確立した。さらに「一子相続令」を出して貴族の分割相続を禁じるとともに貴族の国家勤務を強制化した。行政改革の一環として、正教会も行政機構に組み込まれ、総主教位を廃止して、官吏に指導される合議制の宗務院を置いた。地方長官の腐敗による弊害が多かった地方行政の改革も着手され、行政区分を州と地区に分け、地方監察官の設置、裁判の行政の分離などが試みられたもののこれは失敗に終わっている。 18世紀時点のロシアの人口の大部分が農民であり、都市人口の割合は極一部だった。ホロープ(英語版)(家内奴隷、召使)は1723年まで存続しており、ピョートル1世はこの家内奴隷を農奴となして人頭税を課した。 ピョートル1世の晩年に西欧化政策に反発していた皇太子アレクセイが1716年にウィーンへ亡命する事件が起きた。アレクセイはロシアに連れ戻され、1718年に獄死した。皇后エカチェリーナとの子のピョートル・ペトロヴィチが後継者となったが、この子も翌年には死去している。 1721年10月22日、元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝(インペラートル)の称号を贈り、ロシア帝国が成立した。
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