ロシア帝国による征服
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「チェチェン人」の記事における「ロシア帝国による征服」の解説
一方、18世紀末よりカフカス中央部のカバルド人、オセット人などの居住地帯を併合したロシア帝国が東北部のチェチェン人居住地帯への侵攻を開始すると、チェチェン人は頑強に抵抗したが、1818年にはチェチェン人地域の中にロシア人によって要塞都市グロズヌイが建設されるなど、次第にロシアの圧力が高まった。これに対してチェチェン人はミュリディズムと呼ばれる戦闘的な神秘主義教団の指導者の下に結束して対抗し、19世紀中頃には北カフカスの東部にイマーム(導師)のシャミールを指導者とするイマーム国家(英語版)を建設するに至った。 ロシア帝国はミュリディズムに対して激しく攻撃を加え(コーカサス戦争)、1859年についにシャミールを降してチェチェン人の制圧を完了した。その後、この地方には石油が発見されて石油産業が構築され、ロシアにとって欠かせない地方となってゆく。一方、頑強に抵抗を続けた「狂信的」なチェチェン人に対する恐怖心、敵愾心はロシアの社会に根深く残ることになり、チェチェン人の間にも自分たちの土地で採掘される石油の富がロシア人によって持ち出されることに対する不満が蓄積していった。
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ロシア帝国による征服
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「チェチェンの歴史」の記事における「ロシア帝国による征服」の解説
一方、同じ頃にモスクワ大公国を中心に政治的統一を進め、国家形成を行っていたロシアは、17世紀末までに全シベリアを併合し、18世紀には南下を開始、バルト海沿岸、黒海沿岸、カザフ草原、マンチュリア(満州)東北部の沿海州)などを次々に併合した。 同世紀には、クリミア・ハン国とその宗主国であるオスマン帝国の勢力下にあった北西カフカスへの侵攻を開始し、チェルケス人の一派であるカバルダ人を勢力下に取り込み始めた。同世紀末にはカフカス支配の拠点として北カフカス中央部のテレク川の河畔にウラジカフカス(現北オセチア共和国)を建設、テレク川以東に住むイングーシ人、チェチェン人の征服を進めた。
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