ロシア小説の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 19:49 UTC 版)
思考を促すような西洋の小説が続々とロシア語に翻訳されるようになった。アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ(ロシア初の文学論争のきっかけとなった)、マドレーヌ・ド・スキュデリ(フランス語版)、ポール・スカロン、ル・サージュ (fr:Alain-René_Lesage) などである。 論争は大きく広がり、相異なる立場が出現した―― 保守的な立場が論争の初期では優勢であった。詩人スマルコフは「小説を読むのは無用にして残念な時間の損失である」としている[要出典]。ミハイル・ヘラースコフもまた「小説を読むことから利益を引き出せることはない」としている[要出典]。 アベ・プレヴォなどの翻訳者であったポロチンは、ヨーロッパにおける小説は社会的な役割を担っていると反駁した。翻訳小説の成功の拡大に伴いロシア小説が出現し、大きな成功を収めることになる。 フェードル・エミン(ロシア語版)(1735-1770)は、他国出身ではあったが、ロシア語で創作した最初の小説家であった。エミンの小説は、ありふれた典型的な筋書をロシア化して組み合わせたもので、文体も凡庸なものを用いていたが、それでも生まれたばかりのロシアの大衆の期待に応え、大きな成功を収めた。『移ろう運命』(1763)に代表されるこれらの小説においては、ある種の幻想と現実の混淆、困難な恋愛、冒険譚の月並な主題といったものと並んで、当時の風習のリアルな描写も見出される。これらの小説が直接ロシア語で書かれたということが、その成功の理由の1つであった。作者はこれらの冒険の一部は自身に起きたことであるとも表明しており、これも読者を熱中させた。 作家ミハイル・チュルコフ(ロシア語版)(1743?-1793)の活動にはある種のパラドックスが反映している――チュルコフはむしろ保守的な立場であり、小説を書くことは無意味な営みであると考えていたが、エミンの用いる言葉が平俗なものであるという事実に興味を持ち、彼自身もモスクワの同時代の言葉で書いてみようとした。このことは、同時代のロシアの現実に適合した書き言葉を作り上げる必要性を明らかにした。
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