ロシア帝国に仕えて
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「ゴットロープ・ハインリヒ・フォン・トートレーベン」の記事における「ロシア帝国に仕えて」の解説
戦争中、トートレーベンは軽騎兵、コサック騎兵およびフザール部隊の有能な指揮官として認められた。早くも1758年、彼は通例のように旅団長に就任する代わりに少将として、ロシア軍に取り立てられる。トートレーベンは戦争中に二度負傷したが、その最初はツォルンドルフの戦いの時であった。彼は二つの勲章(聖アンナ勲章 (Order of St. Anna) および聖アレクサンドル・ネフスキー勲章 (Order of St. Alexander Nevsky) )を授与され、三つ目の勲章の候補にもなった。そしてゲリラ戦における小競り合いの中で、「ロシア軍に仕える大胆なザクセン人」として名声を勝ち得る。 1760年10月、トートレーベンはハディクのフザールの騎行 (1757 Berlin raid) を手本とするベルリン遠征の指揮を託された。彼は迅速(300kmを七日間で踏破)に分遣隊を率い、10月3日にプロイセンの首都に至る。しかしその攻撃は撃退され、彼はケーペニック (Köpenick) に退き、増援(サハール・チェルヌイシェフ (Zakhar Chernyshyov) 伯爵中将率いるロシア軍およびラシー伯 (Franz Moritz von Lacy) 指揮下のオーストリア軍)を待たなければいけなかった。援軍の到着後、守備隊は優勢な敵軍を前にベルリンを放棄する。10月8日の夜、トートレーベンは市から降伏の申し出を受けた。表向きには、彼が最初に降伏を勧告した将軍であることが理由だったが、実際にはかつてのベルリン市民であったトートレーベンに、市側が一層の配慮を期待したからである。そしてより長い軍歴と、高い階級ゆえに遠征軍のロシア側司令官と見なされていたチェルヌイシェフ中将に報告することなく、彼は進んで降伏の文書に署名し、指揮下の部隊をもってベルリンを占領した。これは、ベルリン攻略の栄光を我が手にと望んでいた、野心的な将軍たち(トートレーベン、チェルヌイシェフおよびラシー)の間に、深刻な不和をもたらす。 ベルリンの占領後、チェルヌイシェフがロシアで昇進し勲章を授かった一方、トートレーベンもその候補に挙がりながら受章を逃した末、彼の不満は高まった。彼が独自の判断で、ベルリン占領に関する報告書を公表すると、それはロシアの首都、サンクトペテルブルクで醜聞として扱われた。その撤回を要求されると、トートレーベンは挑発的な辞職願をもって答えた。この脅迫は効果的で、自身に対する批判は取り下げられ、彼はロシア野戦軍全体の軽歩兵部隊の司令官に就任する。 1761年の初頭、トートレーベンは栄光の絶頂にあった。三日間を彼の宿舎で過ごしたヨハン・エルンスト・ゴッツコウスキー (Johann Ernst Gotzkowsky) は、帰還後に報告している。 三日の間ほとんど傍を離れず、ずっと彼の帷幕で過ごしたこの状況の中で、彼がペテルブルクや主力軍から受け取った手紙を見て、私は彼がそのいずれからも大いに名声を博しているのだと感じた。つい先ほどペテルブルクから来た総主教を演じる、80歳の老人が女帝の名において伯に挨拶し、祝福し、女帝が毎日彼について語り、彼が送った数多の衣服を宴会のたびに着ている、と約束せねばならなかった時、私はその場に居合わせた。
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