栄光の絶頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 20:31 UTC 版)
「ニーコン (モスクワ総主教)」の記事における「栄光の絶頂」の解説
1654年10月ごろ、ツァーリ・アレクセイは、ニーコンに対して大君(偉大なる君主, ヴェーリキー・ゴスダーリ)という称号を与えた。この称号は、アレクセイの父、ツァーリ・ミハイルが、その父でモスクワ総主教フィラレートに与えた称号である。ニーコンは、ツァーリがモスクワを離れている期間は、摂政を務め政治権力を手にした。ニーコンは1654年の教会会議で、各地の高位聖職者に奉神礼改革を承認させた。反対者はコロムナ主教パーヴェル一人だけであり、彼はその後、主教の地位を剥奪されて流刑地で死去する。1655年3月にはアンティオキアやセルビアの総主教も承認した。ニーコンは、みずからの改革を正教会発祥の地であるビザンティンに戻るものだと主張した。1656年には反対者に対して、破門宣告をなした。 1656年には目立った反対運動はなくなったが、同時にニーコンの態度や行動は、傲慢になりすぎた。ツァーリを「月」とし、総主教は「太陽」だとして、総主教をツァーリより上位の存在だとしたり、修道院の特権を奪う条項を含むため、1649年の会議法典を「悪魔の書」と呼んだりもした。
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