栄光の陰りと日本軍による占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 02:57 UTC 版)
「浦江飯店」の記事における「栄光の陰りと日本軍による占領」の解説
1930年頃にはアスター・ハウス・ホテルはもはや上海で傑出したホテルではなくなっていた。1929年には南京路にアール・デコ様式の和平飯店が完成し、アスター・ハウス・ホテルに影を落とした。1911年にホテルが再オープンしたころの虹口区は一等地であったが、1932年には日本人が多く集まるような地区になっていた。中国人はこの地域を避けるようになっていた。 1931年9月に満洲事変が勃発、それに呼応して1932年1月には上海日本人僧侶襲撃事件が発生した。これが第一次上海事変へとつながり、アスター・ハウス・ホテルの近くでも激しい戦闘が繰り広げられた。上海の外国人居住地区は実質的に日本軍の占領下におかれ、アスター・ハウス・ホテルもそこに含まれた。 1937年8月には日中戦争の口火となる第二次上海事変が発生、アスター・ハウス・ホテルも損傷を被った。その後も上海での戦闘は続き、ホテルは幾度も損傷した。9月にはアスター・ハウス・ホテルの関係者もみな香港に避難した。以降ホテルは大日本帝国の降伏する1945年9月2日まで日本軍がコントロールすることとなる。1937年から1939年までは財団法人日本YMCA同盟がホテルを使用し、その後ホテルは日本軍により第三者に賃貸された。この時の賃料はごく一部ではあるが不在のオーナーに渡っている。
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