栄光の日々
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1923年から25年にかけては当時世界最高のギャラを払っていたニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にも招かれ、ジーリ、ラウリ=ヴォルピ、マルティネッリといった錚々たるイタリア人テノール陣に伍して、『トスカ』、『アンドレア・シェニエ』などを歌い絶賛された。 1925年からは故国スペインと隣国ポルトガルを活動の中心とする。世界各地で絶賛された30歳前のこの若きテノールは本国では右に出るもののない大スター扱いであり、彼は巨万の富を入手した。1926年11月5日、バルセロナ・リセウ劇場での『カルメン』公演では、当時世界的にも例の少ないラジオによるライブ中継がスペイン全土に行われ、アリア「花の歌」の際には他の歌劇場にもフレータの声が流されたという。 ただ、この頃のフレータは求めに応じてスペイン各都市劇場を転々と歌い回り、舞台が連夜に及ぶこともしばしばだったという。この声帯の酷使が後になり響くこととなる。 1926年4月26日、フレータはアルトゥーロ・トスカニーニによって『トゥーランドット』世界初演のカラフ役に抜擢される。これはジーリ、ラウリ=ヴォルピ、マルティネッリ、そしてトスカニーニのお気に入りだったペルティーレなどイタリア人テノール間の役柄争奪戦の収拾が付かなくなったための苦肉の策という見方もあったが、ともあれこの世界オペラ界に注目されたイヴェントで歌えたことはフレータにとっての栄光の瞬間であった。
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栄光の日々
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上京した当座は生活苦に喘いでいたが、1911年に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。 その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに描いた独特な美少年・美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶ人気画家となった。1926年には自身の意匠による便箋や封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行い、当時の流行歌「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)の歌詞に「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになった。また、鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる自邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到し、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するほどだった。当時の華宵の画料は本人の言い値で決まっていたとされ、1925年には『少年倶楽部』の加藤謙一らの画料引き下げの求めに対し、華宵は寄稿の取りやめで応じたという。 しかし戦時色が濃くなるにつれ、人気絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動が減ってゆき、一般大衆の間でもその人気は持続しなかった。戦後も華々しいカムバックとはいかず、1960年代に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風から影響を受けていることがよく知られている。
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