ロシア帝国の主張
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「第三のローマ」としてもっともよく知られる「モスクワは第三のローマである」という神学的・政治的な主張は、15世紀から16世紀のモスクワ大公国で形成された。 この主張が行われた理由として、東方正教会の統合のための神学的な必要性と必然性、正教とスラヴ文化で結びついた東スラヴ人の結束を論じる社会政治、モスクワ大公(後にはツァーリ)の正教における主導性の主張という3点があげられる。これによって早くから大公と強く結びついた教会は、ロシアにおける専制政治の成立と統治に大きな役割を果たした。 1393年にオスマン帝国により第二ブルガリア帝国の首都タルノヴォが陥落すると、一部のブルガリア人聖職者はロシアに逃れた。後述する通りタルノヴォは既に第三のローマと称されており、このときにローマの継承者という思想がもたらされた。トヴェリ大公ボリス・アレクサンドロヴィチの時代、僧フォマの1453年の著作"The Eulogy of the Pious Grand Prince Boris Alexandrovich" でトヴェリが第三のローマだと主張された。 メフメト2世による1453年5月29日のコンスタンティノープルの陥落から数十年のうちに、東方正教圏ではモスクワを「第三のローマ」もしくは「新しいローマ」とする動きが出始めた。 これを象徴的に示したのが、ロシア・ツァーリ国のイヴァン3世とその妻ゾイ・パレオロギナ(ソフィア・パレオロゴス)だった。ゾイは最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪だった。当時のヨーロッパにおける世襲君主制の継承法に従えばイヴァン3世は一旦消滅した東ローマ帝国の継承権を主張することができたが、伝統的にローマ帝国の帝位はそのような自動的な継承が認められるものとはみなされていなかった。 また重要なのは、ゾイより上位の帝位継承権を持つとみなせる弟アンドレアス・パレオロゴスが1502年まで存命だったという点である。しかもアンドレアスは、彼の王位・帝位に関する権利をアラゴン王フェルディナンド2世とカスティーリャ王イサベル1世に売却している。すなわち厳密に考えると、ロシアのツァーリはビザンツ帝国の継承権を主張し得ないのである。しかし一方で、ロシアは神学的観点からも強い主張を持っている。東方正教の信仰の有無は、正教徒にとっては自らを「野蛮人」と区別する重要なアイデンティティだった。ロシアはキエフ・ルーシが988年にウラジーミル1世によって正教に改宗した後、皇帝の娘を妃に迎えた最初の「野蛮人」となった。コンスタンティノープルの帝位は、正教圏にのみ継承されるという意識があったのである。 モスクワをローマの継承者とする考えは、ヴァシーリー3世に対するロシアの僧フィラフェイ・プスコフスキーの賛辞文章によって具現化された。 これは「2つのローマが陥落し、第三のローマが興隆した。そして第四はないだろう。何人もキリストのツァーリに取って代わることはできない!」と主張したものである。誤解されがちだが、この時フィラフェイは 具体的には街としてのモスクワよりも国家としてのモスクワ大公国、ひいてはロシアの地を「第三のローマ」として意識している。ちなみにモスクワは、ローマやコンスタンティノープルと同様に7つの丘の上に建設されている。 こうした理論は、1492年のモスクワ総主教ゾシムスの「パスカリオンについて」(ロシア語: "Изложение Пасхалии")まで遡ることが出来る。 オーストリアのヨーゼフ2世は、即位する少し前の1780年にロシアを訪れている。彼と会話を交わしたロシア皇帝エカチェリーナ2世は、ビザンツ帝国を復興して1歳の孫コンスタンチン・パヴロヴィチをその帝位につけるという野望を真剣に抱き始めた。その際ヨーゼフは、自らがカトリック圏との仲介役になれると述べている。
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