大使節団とは? わかりやすく解説

大使節団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:17 UTC 版)

ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「大使節団」の解説

詳細は「ピョートル1世の大使節団(英語版)」を参照 1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートルは約250名の使節団結成しヨーロッパ派遣、自らもピョートル・ミハイロフ (Пётр Михайлов) という偽名使い使節団一員となった。この使節軍事・科学専門技術といったヨーロッパ文明吸収目的としていたが、対オスマン軍同盟への参加各国打診する外交使節をも兼ねていた。また使節一員に身をやつしたのは、煩瑣な儀礼縛られ自由に行動するためと、公的にモスクワ離れていないと内外に示すためだった。 主にオランダアムステルダム(4か月半)とイングランドロンドン(3か月)に長期滞在し、プロイセンケーニヒスベルクザクセンドレスデンオーストリアウィーンにも立ち寄りイングランド王オランダ総督ウィリアム3世ザクセン選帝侯ポーランド王アウグスト2世神聖ローマ皇帝レオポルト1世会談行った旅行中スウェーデンリガ要塞調べてモスクワ情報送ったり、ポーランド王選挙ではロシア軍ポーランド国境進めて圧力をかけ、フランス推すコンティ公フランソワ・ルイを押しのけアウグスト2世当選尽力したりしている。 アムステルダムで造船技術習得専心し東インド会社所有造船所で自ら船大工として働いた病院博物館植物園視察歯科医療人体解剖見学した中でも歯科医療には強い興味示し初歩的な抜歯の手ほどきを受けて抜歯器具を買い込み帰国後は廷臣たちの虫歯麻酔なしで抜くのを趣味にした。ロンドンでも王立海軍造船所通い天文台王立協会大学武器庫などを訪れた。また貴族院本会議海軍艦隊演習見学したピョートル沢山の物産品や武器を買い集め、1000人の軍事技術専門家雇い入れて、その知識ロシア人教え込ませた。しかし外交上の目的だった軍事同盟呼びかけは、当時西欧関心オスマン帝国よりも、近々予想されるスペイン継承戦争集中していたため失敗した列強1699年オスマン帝国カルロヴィッツ条約締結して大トルコ戦争終結ロシア1700年コンスタンティノープル条約を結びアゾフ領有認められた。 1698年7月モスクワよりストレリツィ再度蜂起英語版)を知らされたためオーストリアから急遽帰国途中立ち寄ったポーランドアウグスト2世会談行い外交政策を対オスマン帝国から対スウェーデン変更黒海からバルト海出口求めることにした。8月ロシアへ辿り着いたピョートル銃兵隊解体して国内固めポーランド及びデンマーク=ノルウェー交渉重ね、対スウェーデン戦争向けて準備整えていった。

※この「大使節団」の解説は、「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
「大使節団」を含む「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の記事については、「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の概要を参照ください。

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