大使館占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 10:03 UTC 版)
「イランアメリカ大使館人質事件」の記事における「大使館占拠」の解説
大使館の敷地には次々に学生と暴徒たちが侵入してきたが、警備にあたっていたアメリカ海兵隊員も、事態の悪化を恐れてこれに対して制止、発砲することはできなかったため、学生と暴徒たちは間もなく大使館の建物内に侵入しこれを占拠、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。 このイラン人らによる行為とイラン当局側の対応は、「外交関係に関するウィーン条約」による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う(同22条2)」という規定に違反していたため、諸外国からの大きな非難を浴びた。だが、学生と暴徒、さらに革命政府とイスラム革命防衛隊は、これらの非難に耳を貸すことはなかった。 なお、大使館員や領事館員、海兵隊員らは、大使館の建物を占拠されるまでのわずかな間に、大量の各種機密書類やアメリカ合衆国ドル紙幣をシュレッダーにかけたり焼却処分にしたほか、通信機器やビザのスタンプなどを破壊することに成功した。しかしシュレッダーにかけられた書類の多くは、イラン当局に動員された主婦や子供たちにより時間をかけて復元され、大使館員や情報部員の情報を含めた機密情報がイラン当局側に渡ることになった。
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