岩倉使節団について
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詳細は「岩倉使節団」を参照 明治4年7月(1871年8月)に廃藩置県を断行した直後の11月に結成された。明治維新の立役者というべき岩倉具視、木戸孝允、大久保利通や若年の少壮官僚伊藤博文らを正・副使として各省理事官と随員含め46名からなる大使節団であり、更に60名近くの留学生も加わり米欧回覧の壮途に就いた。目的は条約締結各国への国書奉呈と聘門の礼を修め、欧米先進諸国の制度・文物を親しく見聞して、明治国家の「国のかたち」を考えること、そして条約改定期限(明治5年5月26日・1872年7月1日)に向けた締結国との予備交渉も含まれていた。 この使節団の計画は具体的には大隈重信と伊藤博文の建言によるものといってよく、その背景には政府顧問のグイド・フルベッキによるブリーフ・スケッチの存在があった。当初10ヶ月で全行程を踏破の予定であったが、米国で想定外の条約改正予備交渉が始まってしまい(結局失敗したが)、長期化することとなった。だが結果として欧米先進国の実態を、じっくりと見聞し、熟慮することで、明治政府は日本近代化の基本構想が出来たと言ってよい。同時にその事により帰国直後の留守政府内での征韓論に対する海外派遣組の反発を招き明治六年政変に至った。
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