戦争に至るまでの経緯
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「ネパール・チベット戦争」の記事における「戦争に至るまでの経緯」の解説
1816年、ネパールはグルカ戦争でイギリスに敗北し、スガウリ条約の締結によって南側への領土拡張は不可能であった。また、1792年の清・ネパール戦争の講和条約の結果、清を宗主国とするチベットへの侵攻は不可能となっており、条約でネパールもチベット同様に清の朝貢国とされていた。 だが、1852年にネパールから清の皇帝に派遣された大使節団(朝貢使)は条約で定められた通りに清国からもチベットからも食糧を与えられず、帰還できたのはたったの一名だけであった。 ネパールの宰相ジャンガ・バハドゥルはこれを見て、清国が阿片戦争で敗れ、太平天国の乱で勃発ですっかり弱体化し、以前のようにチベットに援軍を派遣できないと悟った。また、彼はチベットの国境付近の土地、チベットに蓄えられた富を羨望していた。 そうしたなか、同年にはカサ村でチベットと国境紛争が発生し、1854年にはチベットでネパール商人の暴行が発生し、数人のネパール商人が殺害された。ネパールはチベットが善処しなかったことを理由とし、チベットに1000万ルピーの賠償を要求した。だが、首都カトマンズに来訪したチベットの代表団は50万ルピーまでは支払可能としたため、ネパールは拒否した。 結局、チベットの代表団は期限までに戻ってこなければ拒否回答と理解してほしいと、政府の最終回答を仰ぐため帰国した。だが、チベットの代表団が戻ってくることはなかったため、1855年3月にネパールはチベットに宣戦布告の書簡を送った。このとき、ラサに駐在していた清国の代表のみならず、清国の皇帝にもその旨を伝えた。
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戦争に至るまでの経緯
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「第四次マイソール戦争」の記事における「戦争に至るまでの経緯」の解説
1792年10月、ベンガル総督チャールズ・コーンウォリスがイギリス本国に帰還したのち、2人の総督が交代し、1798年5月に新たにリチャード・ウェルズリーが総督となった。ジョン・ショアの後任にはコーンウォリスが就任することとなっていたが、彼はアイルランドに派遣されたため、代わりにマドラス長官であるウェルズリーが総督となったのであった。 ウェルズリーが総督となったとき、すでに1793年に英仏両国の関係悪化からフランス革命戦争が勃発しており、南インドでも英仏両国の対立が起こっていた。カーナティック戦争以降、インド方面では明らかにイギリスの優勢であったが、彼はイギリス東インド会社の社員からはマイソール王国とニザーム王国がフランスの軍事顧問を雇い入れていることを警戒するように言われ、必要以上にこれに関心を持った。 1797年、マイソール王ティプー・スルターンはフランス領モーリシャス(当時はルイ・ド・フランスと呼ばれていたフランス領フランス島)に使節団を派遣し、フランス軍へ援軍の要請を行った。 だが、これはモーリシャスにフランスの大軍が常駐するという誤情報を信じて踊らされただけであり、その目的は達成されなかった。それだけではなく、イギリスにも開戦の口実を与える結果となってしまった。 ウェルズリーはマイソール王国がフランスと同盟を組もうとしていると判断し、ティプー・スルターンに即答を求めた。だが、返事は返ってこなかったため、彼はこれを機にマイソール王国との争いにすべての決着をつけようと決意した。 1798年9月1日、イギリスはニザーム王国と軍事保護条約を締結し、フランスの軍事顧問らを追放させ、代わりに首都ハイダラーバードにイギリス軍を駐屯させて、同国を事実上藩王国化した(ニザーム藩王国)。そして、イギリスに従順となった同国はマイソール王国に対する戦争への参加を決めた。 一方、マラーター王国は今度の戦争には乗り気ではなく、ティプー・スルターンの打倒には消極的であった。なぜなら、1795年に王国宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが自殺したのち、王国を中心としたマラーター同盟は混乱に陥り、新宰相バージー・ラーオ2世が決まったのちも混乱が続いていた。 マイソール王国はどうであったかというと、1792年に同国とイギリスとの間に結ばれたシュリーランガパトナ条約にはフランスの軍事顧問の追放は含まれていなかったため、ウェルズリーは手紙をたびたび送り、それら軍事顧問を追放するように要求した。だが、ティプー・スルターンはその要求を拒んだばかりか、自分はヨーロッパのどこでも好きな国の軍事顧問を雇うのだと宣言した。 さて、1798年7月にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプトに上陸した(エジプト・シリア戦役)、との知らせがカルカッタにもこの頃届いた。このままフランスが再び勢力を盛り返せば、インドをかつてのように脅かすであろうと考えるたウェルズリーは、再びマイソール王国とティプー・スルターンの打倒を決意した。このとき、ウェルズリーが本国に送った手紙には次のように記されていた。 「私はティプーと破滅的な戦争を継続する以外に何も考えていません。状況は立ち直るどころかはるかに逼迫しています」
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