戦争に導いた偶発事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/25 23:31 UTC 版)
「米英戦争の原因」の記事における「戦争に導いた偶発事件」の解説
この不和は1807年のチェサピーク=レパード事件から始まった。イギリスの戦艦HMSレパードがアメリカの戦艦USSチェサピークを砲撃し、乗り込んで来て3人の船員を殺し4人の「脱走者」を連れ去った。そのうち3人はアメリカ人であり、イギリス海軍に強制徴募されたことになった。アメリカの大衆はこの事件に怒り、アメリカの主権と国民の名誉を守るために多くの者が開戦を要求した。 一方、1806年のナポレオンによる大陸封鎖令と1807年のイギリスによる枢密院令によって、国際貿易を不安定にする通商禁止措置が取られていた。1807年から1812年まで、およそ900隻のアメリカの船が捕まった。 合衆国は1807年の通商禁止法で、アメリカの船が外国の港に行くことを禁じ、イギリスの船にはアメリカの港を封鎖することで応じた。ジェファーソンの通商禁止措置は、海外貿易を止めるよりも強制徴募される侮辱の方を選んだニューイングランドで特に不評となった。この不満が1814年のハートフォード会議の招集という形になった。 通商禁止法はイギリスとフランスに何の影響も与えなかったので、1809年に非国交法に置き換えられ、イギリスとフランスの港に行くアメリカ船を除いた通商禁止に変わった。さらにこの法が強制できないと分かると、1810年にはメーコン議案第2号に置き換えられた。これはすべての通商を禁止するが、仮にイギリスとフランスのどちらかがアメリカの船舶に対する干渉を止めれば、合衆国はもう一方への通商禁止を強化するというものだった。ナポレオンはイギリスに難題を吹っ掛ける機会を探していたので、見かけ上だけでもアメリカの船舶を拘束しない約束をした。この見せかけが功を奏して、合衆国はイギリスに対する通商禁止を強化し、宣戦布告に近づいていった。 1811年、アメリカ合衆国下院においては、タカ派として知られる若手民主共和党員の一群が、ケンタッキー州選出の下院議長ヘンリー・クレイとサウスカロライナ州選出のジョン・カルフーンの主導で前面に出てきた。タカ派の議員は、上に挙げたような理由でイギリスに対する開戦を主張し、領土拡張よりも国民の不満解消の方に重点をおいた。 1812年6月1日、マディソン大統領は下院で演説を行い、イギリスに対するアメリカの不満を一つ一つ数え上げた。ただし、開戦にまでは話が及ばなかった。マディソンの演説の後、直ぐに下院で宣戦布告の可否を問う投票を行い、賛成79票対反対49票で、上院では賛成19票対反対13票で可決された。公式にはマディソンが法案に署名した6月18日が開戦の日とされる。これはアメリカ合衆国が他国に宣戦布告した初めてのこととなった。また、アメリカの歴史で宣戦布告に対する議会の投票では、最も接近したものとなった。39名いた連邦党議員はすべて反対票を投じた。戦争に対する批判は「マディソン氏の戦争」という言葉に表された。
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