戦争に関わった民族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
「ポンティアック戦争」の記事における「戦争に関わった民族」の解説
ポンティアック戦争に関わった民族は、1763年のパリ条約まではフランスが所有権を主張していたpays d'en haut(上の国)として知られるニュー・フランスの曖昧に定義された地域の居住者達であった。「上の国」のインディアンは多くの部族に分かれていた。この時点とこの領域では、「部族」は政治的な意味合いよりも言語の違いであるとか、血のつながりで分けられていた。全部族の言葉が話せる酋長はいなかったし、一致して事に当たる部族もいなかった。例えば、オタワ族は一部族として戦争に向かうのではなく、何人かのオタワ族の集団がそうすることを選ぶのであり、他の集団は戦争を非難し戦争とは離れて留まっていた。インディアンの社会は合議を尊ぶ民主主義であり、戦争を好まないグループに対して、交戦派が自分たちの意思に従わせるというような性格のものではない。 「上の国」の部族は基本的に3つの集団に分かれていた。第1の集団は五大湖地域の部族であり、オタワ族、オジブワ族、ポタワトミ族およびヒューロン族であった。これらの部族フランス系移民と長い間同盟を結んできており、ともに生活し、交易し、時には婚姻を結んできた。五大湖のインディアン部族はフランスが北アメリカを失った後、イギリスの権威の下に入ることを知って危機感を募らせていた。イギリス軍が1760年にフランスからデトロイト砦を奪取したとき、その地方のインディアンはイギリス軍に対し「この国は精霊によってインディアンに与えられたものだ」と警告していた。 第2の集団は東部イリノイ郡の部族であり、マイアミ族、ウェア族、キカプー族、マスクーテン族およびピアンカショー族であった。五大湖地域の部族にて、この地域の部族はフランスとの密接な付き合いの長い歴史があった。戦争中、イギリス軍はイリノイ郡が戦争の中心からは遠く離れていたために戦力を行使できなかったので、イギリス軍との付き合いは余り無かった。 3番目の集団はオハイオ郡の集団であり、デラウェア族、ショーニー族、ワイアンドット族およびミンゴ族であった。これらの部族はこの世紀早くにイギリスやフランス、それにイロコイ族から逃れてオハイオ川渓谷に流れてきていた。五大湖地域やイリノイ郡の部族とは異なり、オハイオの部族はフランスの支配とは強い接点が無く、先の戦争でフランス軍と共に戦った際もイギリス軍を追い出すための手段と見ていた。オハイオの部族は、イギリス軍がオハイオ領土から撤退するという了解でイギリス軍とは休戦していた。しかしフランスがいなくなると、イギリス軍はこの地域の砦を捨てるのではなく強化したので、オハイオの部族はイギリス軍を再度追い出すために1763年の戦争に参加した。 「上の国」の外では、影響力のあるイロコイ連邦はイギリス軍と「盟約の鎖」として知られる同盟を結んでいたために、ポンティアック戦争には参加しなかった。しかし、最西端のイロコイ族であるセネカ族はこの同盟に不満を抱いていた。既に1761年にセネカ族は五大湖やオハイオ領土の部族に伝令を送り、イギリス軍を追い出すために連合を組むことを呼びかけた。1763年にポンティアック戦争が始まった時、多くのセネカ族が素早く行動を起こした。
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