戦争に至る経緯
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ムガル帝国のデカン地方への介入が行われたのは、16世紀末から17世紀初頭、アクバルの時代のことである。この地域には、バフマニー朝の継承国家であるデカン・スルターン朝とよばれる諸国が割拠し、互いに争っていた。 1600年8月、ムガル帝国はアフマドナガル王国の首都アフマドナガルを落としたが、これ以降帝国のデカン地方への介入は断続的に続くこととなった。 17世紀前半、ムガル帝国はアフマドナガル王国の武将マリク・アンバルや、それを支援するビジャープル王国やゴールコンダ王国と幾度となく衝突を繰り返し、時には帝国側から寝返るものの現れた。 1636年2月、ムガル帝国はアフマドナガル王国を征服し、5月にはビジャープル王国とゴールコンダ王国に帝国の宗主権を認めさせ、皇帝の名を刻んだ硬貨を鋳造、使用させた。また、アフマドナガル王国の旧領の分割を行い、北半をムガル帝国が併合し、ビジャープル王国は南半を、ゴールコンダ王国はその一部を併合した。 その後も、ムガル帝国はデカン地方に介入し続けたが、1650年代にビジャープル王国で、マラーターの指導者シヴァージーが現れ、ラーイガド城を拠点にアラビア海に面するコンカン地方に独自の政権を持つようになった。 1660年代、アウラングゼーブの治世になると、帝国の領土をたびたび襲撃、略奪するようになり、軽騎兵を駆使してゲリラ戦を行い、重装兵を中心としたムガル帝国の軍を何度も破った。 1666年、アウラングゼーブはシヴァージーと和解策も取ろうとしたが、結局は決裂した。シヴァージーはこれ以降もムガル帝国の領土を襲撃、略奪し、1674年にはマラーター王を宣し、マラーター王国を樹立した。 1680年4月、アウラングゼーブを悩ませたシヴァージーは死亡し、アウラングゼーブは喜んだが、7月にラージプート諸王が反乱を起こしたため、まずこれの鎮圧を優先した。 1681年9月、ムガル帝国とメーワール王国との和議が成立して、アウラングゼーブはデカンへの大規模な出兵に向けて準備した。
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戦争に至る経緯
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「第一次マラーター戦争」の記事における「戦争に至る経緯」の解説
1772年11月、マラーター王国の宰相マーダヴ・ラーオが死亡したのち、弟のナーラーヤン・ラーオが宰相位を継承した。 だが、翌1773年8月にナーラーヤン・ラーオは何者かに暗殺されてしまった。叔父のラグナート・ラーオが宰相位を継いだものの、ラグナート・ラーオにはナーラーヤン・ラーオ暗殺の嫌疑がかかっていた。 その後、1774年にナーラーヤン・ラーオの未亡人が息子マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを出産した。財務大臣のナーナー・ファドナヴィースは彼を宰相に擁立し、ラグナート・ラーオは廃位された。 しかし、ラグナート・ラーオは宰相位をあきらめず、復権を目指すためにプネーを逃げ、ボンベイのイギリス東インド会社と接近を試みた。当時、イギリスは第一次マイソール戦争の直後であったが、当時ベンガル総督だったウォーレン・ヘースティングズは宰相位をめぐるマラーター王国の内紛を見て、これに介入することを決定した。 フィリップ・フランシスは、「ベンガル管区の安全がかかっているのに、その兵力を分散して弱めるべきではない」と最初からこれに猛反対した。だが、ヘースティングズは「(アメリカ独立戦争での)北アメリカでの戦況が悪化しており、国家の損失を回復するために身を捧げるのは当然である」と固い決意を持っていた。
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戦争に至る経緯
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「第二次マイソール戦争」の記事における「戦争に至る経緯」の解説
第一次マイソール戦争後、マイソール王国とのイギリスとの間にはこれといった争いは起こっておらず、マドラス条約に基づく平和が保たれていた。この間、マイソール王国の支配者ハイダル・アリーは国力の増強に努め、次の戦争の機会を窺っていた。 南インドには英仏間のアメリカ独立戦争の余波が伝わり、1778年にはイギリスがフランスの拠点ポンディシェリーを包囲した(ポンディシェリー包囲戦)ほか、 1779年にイギリスがフランスからケーララ地方の都市マーヒを奪った。軍事的にも重要だったこの地がイギリスに奪われたことで、南インドにおけるイギリスの脅威が増し、マイソール王国との対立が再燃した。 一方、マラーター王国を中心としたマラーター同盟は戦争後、ナーナー・ファドナヴィースとラグナート・ラーオとの間で争いが起こり、イギリスが後者に加担して第一次マラーター戦争が勃発した。この戦争で不利になったナーナー・ファドナヴィースは、1780年2月7日にマイソールのハイダル・アリーと反英で同盟するところとなった。 これにより、マイソール王国、マラーター王国、ニザーム王国との間に三者同盟が成立し、ハイダル・アリーはイギリスとの対決姿勢を見せた。
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戦争に至る経緯
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「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の記事における「戦争に至る経緯」の解説
シュレースヴィヒとホルシュタインは、デンマーク王国ではないが、デンマーク王を公としていただく同君連合の形でデンマークに支配されていた。両地方の多数派はドイツ人であり、19世紀にドイツに民族主義が高まると、両地方でもデンマークから分かれてドイツに帰属しようとする運動が盛んになった。1848年から1852年には、プロイセンなどドイツ諸邦が第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をしかけたが、諸外国の仲介があり、ロンドン議定書により領土の変更なくデンマークの支配が継続した。 1863年3月にデンマークは憲法を改正し9月に施行したが、これにはシュレースヴィヒのデンマークによる併合が含まれており、10月には反発したザクセン軍とハノーファー軍の12,000の兵がホルシュタインに進駐してデンマークを威嚇した。 同年にフレデリク7世が死去すると、オレンボー家は断絶し、その後継者として同家の支流グリュックスブルク家からクリスチャン9世が登極した。しかしシュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡る争いは決着しておらず、ロンドン議定書で結ばれた内容は現状維持であった。フレデリク7世が生前に布告した「継承令」には、当時の王家による両公国の継承も含まれていた。これを「11月憲法」と言うが、その条目はロンドン議定書には含まれていなかった。この盲点を突いて、プロイセン王国首相ビスマルクは、条約違反を主張し、「継承令」及び「11月憲法」の撤回を要求した。しかもビスマルクは、オーストリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。ビスマルクには、多数の住民がドイツ人であることから、同地を併合してキール港を入手し、北海とバルチック海を結ぶ運河を構築する狙いがあった。 デンマークは外交によって解決可能であると楽観視し、プロイセンの要求には応じなかった。列強はプロイセンに同調したが、スウェーデンだけは参戦して来るという目論見があった。汎スカンディナヴィア主義の昂揚を背景に、スウェーデン王カール15世はデンマークを完全に支持し、2万の兵の派遣を約束していたのである。しかしスウェーデンではすでに国王の手から政治的実権が離れつつあり、スウェーデン議会は軍の派遣を拒否した。汎スカンディナヴィア主義は、これをもって事実上挫折した。
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