カール15世とは? わかりやすく解説

カール15世 (スウェーデン王)

(カール15世 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 08:19 UTC 版)

カール15世
Karl XV
スウェーデン国王
ノルウェー国王
カール15世
在位 1859年7月8日 - 1872年9月18日
戴冠式 スウェーデン王:1860年5月3日
ノルウェー王:1860年8月5日

全名 カール・ルードヴィグ・エウシェン・ベルナドッテ
出生 1826年5月3日
スウェーデン
ストックホルム
ストックホルム宮殿
死去 (1872-09-18) 1872年9月18日(46歳没)
スウェーデン
マルメ
埋葬  スウェーデン
ストックホルム
リッダルホルム教会
配偶者 ロヴィーサ・アヴ・ネーデレンデナ
子女 ロヴィーサ
カール・オスカル
王朝 ベルナドッテ王朝
父親 オスカル1世
母親 ユセフィナ・アヴ・レウクテンベリ
サイン
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カール15世スウェーデン語: Karl XV, 1826年5月3日 - 1872年9月18日)は、ベルナドッテ王朝第3代のスウェーデン国王およびノルウェー国王(在位:1859年 - 1872年)。ノルウェー国王としての名はカール4世。父はオスカル1世、母はジョゼフィーヌナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌの孫)。全名はカール・ルートヴィグ・エウシェン・ベルナドッテ: Karl Ludvig Eugen Bernadotte

人物

スウェーデン王オスカル1世と王妃ユセフィナ・アヴ・レウクテンベリの長男として、1826年5月3日に生まれた[1]

1857年9月25日に摂政に就任、1859年7月8日に父が死去すると国王に即位した[1]。1860年5月3日にスウェーデンのストックホルムで、同年8月5日にノルウェーのトロンハイムで戴冠した[2]

カール15世の治世には教会法(1863年)と刑法(1864年)の改正[1]リクスダーゲン(スウェーデン議会)改革(1866年[3])が行われ、国民からの人気があったという[3]

カール15世は汎スカンディナヴィア主義を支持し、デンマーク王フレデリク7世とも親しかったため、デンマークとプロイセン、オーストリアの戦争(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)直前においてデンマークへの援助を約束したが、結局スウェーデン軍の準備不足などの理由により中立に留まることを余儀なくされた[1]

普仏戦争ではフランスに同情的だったが、国を挙げての援助は差し控えた[2]

1872年9月18日にマルメで死去した[1]。カールと前年に死去した王妃ロヴィーサとの間の子は、すでに夭逝した王子と、デンマーク王太子フレゼリク(のちのフレゼリク8世)に嫁いだロヴィーサ王女しかなく、王位はカールの弟オスカル2世が継いだ[1][2]

遺言状で自身の収集した美術品の大半を国に譲った[2]。また、詩作もいくらか残したという[1]

家族

王太子時代の1850年6月19日にオランダウィレム2世の弟フレデリック王子の長女ルイーゼ(ロヴィーサ)と結婚した[1]。2人は1男1女をもうけた。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i Bain, Robert Nisbet (1911). "Charles XV." . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 5 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 932.
  2. ^ a b c d Ripley, George; Dana, Charles A., eds. (1879). "Charles XV." . The American Cyclopædia (英語). p. 307.
  3. ^ a b Gilman, D. C.; Peck, H. T.; Colby, F. M., eds. (1905). "Charles XV." . New International Encyclopedia (英語). Vol. IV (1st ed.). New York: Dodd, Mead. p. 519.

関連項目

先代
オスカル1世
スウェーデン王
1859年 - 1872年
次代
オスカル2世
ノルウェー王
1859年 - 1872年

カール15世

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スウェーデン=ノルウェー」の記事における「カール15世」の解説

カール15世 (スウェーデン王)」も参照 1859年7月8日オスカル1世この世去りオスカル1世病気の間、既に摂政務めていた息子、カール15世が王位継承した法務大臣Louis De Geer男爵計り知れない援助によって、カール15世は切望していた憲法改正をついに達成したその方法内政改革抜本的な対策によって1860年準備された。そして1863年1月リクスダーグその時点より二院制になるという会期までに、政府改革法案提出した二院制の上院は一種貴族院であり、一方で下院議員普通選挙によって3年ごとに選出されることになっていた。 新し憲法1865年4つ全ての地位から認められ1866年1月22日公布された。1866年9月1日新制度下での初の選挙が行われ、そして1867年1月19日には新しリクスダーグ初め開催された。この一つ大きな改革でカール15世は満足しなければならなかった。その他のあらゆる方向で、彼は多かれ少なかれ自身作り上げたものによって阻まれた。リクスダーグはカール15世が特に関心持っていたスウェーデン軍改革計画認可することを拒絶した。カール15世がその生涯懸けて得よう努力したプロイセン模範とする計画だったが、一部経済的理由により、一部国王好戦的な傾向対す不安により拒まれた。 1864年、カール15世はデンマークと反プロイセン同盟形成しよう努めた。またデンマーク敗北の後にはカール15世は、北欧におけるプロイセン優勢に対抗するため、フランス助け借りて(望ましい)スカンジナビア連合計画した。この政策1870年フランス帝国転覆したことにより自然と破綻した。カール15世は1872年9月18日亡くなり、後にオスカル2世として統治する彼の弟(エステルイェートランド地方公爵)が継承した

※この「カール15世」の解説は、「スウェーデン=ノルウェー」の解説の一部です。
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