マイソール王国との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 21:33 UTC 版)
「ナーナー・ファドナヴィース」の記事における「マイソール王国との争い」の解説
一方、南インドにおいては、1772年6月以来、宰相マーダヴ・ラーオの時代に講和したマイソール王国が存在した。その支配者ハイダル・アリーはさらなる領土拡大をめざし、マーダヴ・ラーオの死後からデカン高原南部のマラーター同盟の領土に侵攻して、1776年3月15日にはマラーター諸侯ゴールパデー家の拠点グッティ(英語版)を占拠した。 また、ゴールパデー家の領土ダッタワードやガジェーンドラガドなどには、マイソール側の知事としてファテー・アリー・ハーンが任命された。これにより、ナーナー・ファドナヴィースは兵を派遣し、マイソール側と全面的に争った。 だが、1777年1月8日にマイソール側がダーラヴァーダ付近の会戦でマラーター軍に勝利するなど、マラーター側は分が悪かった。そのうえ、1778年3月に第一次マラーター戦争中にイギリスがラグナート・ラーオに援軍を送ると、ナーナー・ファドナヴィースは兵を引き返した。 これにより、ハイダル・アリーはカルナータカ地方の制圧に乗り出し、1779年にチトラドゥルガ・ナーヤカ朝とカダパのナワーブを滅ぼした。
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