マイソール王国による征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 00:26 UTC 版)
「コダグ王国」の記事における「マイソール王国による征服」の解説
だが、18世紀後半にマイソール王国が強国化すると、コダグ王国はマイソールのムスリム軍人ハイダル・アリーから侵略を受けるようになる。そして、1765年にコダグ王国はマイソールの軍勢を打ち負かされ、王はマラバールへと逃げた。このとき、ハイダル・アリーはマディケーリに部隊を置き、コダグ軍の一部を自軍に入れ、シュリーランガパトナへと戻った。 1770年、ムッドゥ・ラージャ2世が死亡し息子、デーヴァッパ・ラージャが王位を継承した。だが、1773年にコダグ王国で王位をめぐって内紛が発生し、ハイダル・アリーはこの内紛を見て王国に再び侵攻した。これはリンガ・ラージェーンドラ(リンガ・ラージャ)が君主デーヴァッパ・ラージャに対し、甥のアッパージー・ラージャを擁立するため、ハイダル・アリーを招いたことによる。 1774年、デーヴァッパ・ラージャはバサヴァパトナへと逃げ、廃位された。ハイダル・アリーはアッパージー・ラージャ2世を王に擁立し、コダグ王国の支配権を握り、年貢を取り立てた。1775年にアッパージー・ラージャが死ぬと、その叔父リンガ・ラージェーンドラ1世が即位した。 1780年、リンガ・ラージェーンドラ1世が死亡し、息子のドッダ・ヴィーラ・ラージェーンドラが王位を継承した。彼は若かったため、ハイダル・アリーがその庇護者となり、王国は完全にその支配下にあった。 1782年6月、ハイダル・アリーはコダヴァ族の反乱が発生したのを見て、マディケーリから王子を人質に取って対抗し、コダグ王国を直接統治下に置いた。 同年にハイダル・アリーが第二次マイソール戦争中に死亡したが、息子のティプー・スルターンも王国を支配し、1785年に完全に反乱を鎮圧した。同年10月に彼はシュリーランガパトナを去り、コダグ王国に入った。ティプーはマディケーリに入城し、男、女、子供を数千をシュリーランガパトナへと連れ帰り、ヒンドゥー教からイスラーム教に改宗させ、拒むものは殺害、拷問にかけた。そのほかにも多数が連れ去られ、その総数は70,000人から85,000人に上るという。
※この「マイソール王国による征服」の解説は、「コダグ王国」の解説の一部です。
「マイソール王国による征服」を含む「コダグ王国」の記事については、「コダグ王国」の概要を参照ください。
- マイソール王国による征服のページへのリンク