マイソール戦争おける介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 21:33 UTC 版)
「ナーナー・ファドナヴィース」の記事における「マイソール戦争おける介入」の解説
第一次マラーター戦争は長引き、ラグナート・ラーオとの戦いで不利になったナーナー・ファドナヴィースは、1780年2月7日にマイソールのハイダル・アリーと反英で同盟するところとなった。これにより、5月にハイダル・アリーはタミル地方に出陣し、イギリスの拠点であるマドラスを脅かすところとなった(第二次マイソール戦争)。 だが、1782年5月にナーナー・ファドナヴィースはイギリスとの講和条約サルバイ条約の締結を承認し、第一次マラーター戦争を終わらせた。これはマイソール王国との盟約を破ることであったが、ハイダル・アリーは第二次マイソール戦争を続行し、12月に死亡した。 1784年3月、ハイダル・アリーの息子ティプー・スルターンはイギリスとマンガロール条約を結んで戦争を終わらせた。とはいえ、ナーナー・ファドナヴィースの裏切りにより、マイソール王国とマラーター王国の対立は終わらなかった。 1785年2月、ティプー・スルターンはマラーター王国の属国状態だったサヴァヌールのナワーブの領土を蹂躙したのち、3月にはマラーター王国の領土に攻め入った。ナーナー・ファドナヴィースはこの侵略に苦戦し、ニザーム王国のニザーム・アリー・ハーンと同盟を組み、これに対処した。 1786年6月、マラーター王国軍がガジェーンドラガドの戦いでマイソール軍に大勝すると、1787年2月14日にナーナー・ファドナヴィースとティプー・スルターンとの間で講和が結ばれた。それでも、ナーナー・ファドナヴィースはマイソール王国の脅威を恐れ、ニザーム王国ともに警戒に当たり続けた。 そうしたなか、1789年12月にティプー・スルタンがトラヴァンコール王国に侵攻し、1790年5月に第三次マイソール戦争が勃発すると、6月にはマラーター王国、ニザーム王国、イギリスとの間に三者同盟が結成された。 そして、1792年に三者同盟軍はマイソール王国の首都シュリーランガパトナを包囲し、3月に講和条約シュリーランガパトナ条約が結ばれると、マラーター王国はマイソール王国の領土東北部を割譲された。
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