マイソール王国との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/01 21:08 UTC 版)
「マーダヴ・ラーオ」の記事における「マイソール王国との戦い」の解説
1761年のパーニーパットの敗戦後、マラーター王国の監視が南インドに及ばなくなった結果、同年にカルナータカ地方のマイソール王国ではムスリム軍人ハイダル・アリーが王国の実権を掌握した(マイソール・スルターン朝)。 ハイダル・アリーは強大な支配者で、マイソール王国の領土拡大をめざし、1763年にはケラディ・ナーヤカ朝を滅ぼし、南インドの制圧に乗り出した。1764年1月にハイダル・アリーがトゥンガバドラー川を越えてマラーター領に侵攻したため、マーダヴ・ラーオはこの動きを見て、同年2月に大軍を率いてマイソール王国へと遠征に向かった。 だが、この遠征に援助としてきていたラグナート・ラーオは単独でマイソール王国と講和を結んだため、1765年3月30日にマーダヴ・ラーオは和議を結び、貢納金を取って引き上げた。 しかし、1766年11月にマーダヴ・ラーオは再びマイソール王国へ遠征を行い、1767年3月4日にはマドゥギリを攻略し、5月に帰還した。 この2度にわたる遠征により、マイソール王国の勢力拡大に一応の歯止めをかけることができた。
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