マイソール軍とイギリスの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 14:20 UTC 版)
「第三次マイソール戦争」の記事における「マイソール軍とイギリスの戦い」の解説
同年5月24日、イギリスはマイソール側のトラヴァンコール侵攻による条約違反を口実に宣戦し、マイソール領に侵攻した。 同月末、マドラス軍指揮官ウィリアム・メドウズがマイソール王国からはるか南方、ティルチラーパッリを出た。ベンガル管区からは一支隊が駆けつけ、これを援助する算段であった。 7月21日にメドウズがコインバートルへと入城した。ティプー・スルターンに派遣されたサイイド・サーヒブの騎兵4000がこれに相手したが、追い払われてしまった。イギリスによってコインバトールが占領されたのち、パールガート、ディンディグルなども落とされた。メドウズはコインバトール地方を占領したのち、軍を大支隊に分け、コインバトール、パールガート、サティヤマンガラムに置いた。 9月2日、ティプー・スルターンは4万の軍勢で首都シュリーランガパトナから出撃し、同月9日に峠を越え、13日にサティヤマンガラムを攻撃した(サティヤマンガラムの戦い)。その後、イギリス軍は夜陰に乗じて逃げ、コインバトールへと向かったが、マイソール側の騎兵1万5000がこれを追撃した。しかし、これは救援に駆け付けたメドウズの軍勢によって撃退された。 その後、ティプー・スルターンはイギリス軍の主力の動きを見ながら、マイソール軍にイギリス軍の連携や供給を断たせようとした。11月初頭、彼は小規模なベンガル管区軍を攻撃するため彼の大部分の軍勢を動かし、メドウズを欺いた。このベンガル管区軍9000はマクスウェル[要曖昧さ回避]大佐によって率いられ、カーヴェーリパッティナムにまで達し、同地の補強にあたっていた。 11月14日、ティプー・スルターンはカーヴェーリパッティナムを攻撃したが(カーヴェーリパッティナムの戦い)、これを突破することが出来ず、南へと向かった。メドウズはベンガル管区軍から何の連絡もないことを心配し、マドラスが陥落するとイギリスの尊厳にかかわるため、同地を防衛するために大急ぎで引き返した。同月17日にはメドウズはマクスウェルに合流してこの軍勢に加わり、マイソール軍の追撃に向かった。 ティプー・スルターンはカルナータカ地方を縦断して南へと向かっていたが、イギリスの拠点でもあったティルチーパッリとそこから供給される物資に目をつけ、メドウズが到着する前にこの町を略奪して破壊した。彼は最終的にフランスの拠点であるポンディシェリーにたどり着き、イギリスに対抗するための支援を期待した。しかし、フランスはフランス革命の真っただ中であり、支援を得ることはできなかった。 一方、マイソール軍を追っていたメドウズの軍勢はマドラスへと向かい、同地に到着後、軍の指揮権をカルカッタからやって来たチャールズ・コーンウォリスに返上した。
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