ナルヴァの戦いとは? わかりやすく解説

ナルヴァの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/08 00:44 UTC 版)

ナルヴァの戦い

ナルヴァの戦い
グスタヴ・セーデルストレム画(1910年)
戦争大北方戦争
年月日:1700年11月19日(ユリウス暦
1700年11月20日(スウェーデン暦
1700年11月30日(グレゴリオ暦
場所エストニアナルヴァ
結果:スウェーデンの勝利
交戦勢力
ロシア・ツァーリ国 スウェーデン王国
指導者・指揮官
シャルル・ド・クロワ
ボリス・シェレメーテフ
カール12世
カール・グスタフ・レーンスケルド
戦力
30,000人 - 40,000人 10,000人
損害
死者・負傷6,000人
捕虜10,000人
死者・負傷者2,000人

ナルヴァの戦い(ナルヴァのたたかい。: Slaget vid Narva: Битва при Нарве)は、1700年から1721年にかけてロシア・ツァーリ国スウェーデンバルト帝国)を中心に戦われた大北方戦争における一戦闘。1700年11月30日ユリウス暦11月19日スウェーデン暦11月20日)、現在のエストニアの都市ナルヴァでロシア軍とスウェーデン軍が戦った。

経過

ロシアのツァーリピョートル1世は海への出口をバルト海に求め、沿岸を領土としているスウェーデンと戦うためポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世デンマーク=ノルウェーフレデリク4世反スウェーデン同盟を締結した。1700年2月にポーランドがスウェーデンの大陸領であるリヴォニアの都市リガを、3月にデンマークがスウェーデンの同盟国シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を攻撃して大北方戦争を開始した。ロシアは交戦していたオスマン帝国との和睦交渉が終わり次第エストニアへ遠征する方針だった。

これに対し、当時18歳であったスウェーデン王カール12世は直ちに反撃、7月にイングランドオランダ艦隊の協力でデンマークの首都コペンハーゲンを急襲、フレデリク4世は8月にカール12世とトラヴェンタール条約を結んで戦争から離脱、リガを包囲していたポーランド軍もリガを落とせずにいた。ピョートル1世は8月にオスマン帝国と和睦を結んでスウェーデンに宣戦布告したが、デンマークの脱落で既に同盟は崩れかけていた[1][2][3]

ピョートル1世は3万から4万の兵を率いてモスクワを出発、ノヴゴロドを経てナルヴァに到着して10月から要塞を包囲した。しかし、ナルヴァは堅固な要塞で籠城軍が必死に抵抗していた上、ロシア軍は外国人の将校を中心とした訓練不足の新兵を大勢入れていたため一向にナルヴァを落とせなかった。10月末、スウェーデン軍はデンマークと和睦した後はバルト海を渡りエストニアの港パルヌに上陸、北上してナルヴァへ移動した。スウェーデン軍接近の報告を受けたピョートル1世はロシア軍の指揮権をフランス人将校シャルル・ド・クロワ英語版に委ねると戦場から離脱、ノヴゴロドへ戻っていった。

11月19日、ロシアの将軍ボリス・シェレメーテフ英語版が派遣した偵察隊がスウェーデン軍を発見したが撃退され、スウェーデン軍は吹雪に紛れてナルヴァのロシア軍本陣を急襲した。ロシア軍は吹雪で大砲が撃てず、指揮系統が乱れていた上に兵の質も悪く、外国人将校の中にスウェーデン軍に内通して本陣の場所を教えた者もいた。これらの悪条件が積み重なり、スウェーデン軍は約半分ほどの兵力でロシア軍に壊滅的な打撃を与えた。ロシア軍の死者・負傷者は六千人で、一万人も捕虜になり、大砲も全て取られてしまった。一方のスウェーデン軍の被害は二千人だった[4][5][6]

この後、スウェーデン軍は、リガを包囲していたポーランド軍を撃破し、追撃[7]。ロシアと組んでいたポーランドにも軍事遠征を行い、一旦はポーランドの反スウェーデンの動きを沈静化させた。一方、敗れたピョートル1世はさらなる軍の近代化を推進するとともに、1705年より徴兵制の導入も行った。カール12世がポーランドへ向かった隙にエストニアへの遠征を再度実施、ナルヴァの要塞はロシア軍を一度は退けたものの、カール12世の不在時の1704年に陥落した。バルト海沿岸を徐々に平定していったピョートル1世は内政・軍事改革を継続すると共に、ポーランドに援軍を送りスウェーデンへの交戦を続けていった[8][9][10]

国境ナルヴァ川を挟んで建つナルヴァ城(左、エストニア)とイヴァンゴロド要塞(右、ロシア)。1999年

脚注

  1. ^ 阿部 (1966年) pp. 120-123.
  2. ^ 土肥 (1992年) pp. 64-68.
  3. ^ 阿部 (1996年) pp. 53-59.
  4. ^ 阿部 (1966年) pp. 123-125.
  5. ^ 土肥 (1992年) p. 68.
  6. ^ 阿部 (1996年) pp. 59-61.
  7. ^ 箕作 (1915年) pp. 102-108.
  8. ^ 阿部 (1966年) pp. 126-131.
  9. ^ 土肥 (1992年) pp. 69-73.
  10. ^ 阿部 (1996年) pp. 61-66.

参考文献

関連書籍

  • 箕作元八 「14 四倍の敵軍を破るナルヴァの戦」『北方の流星王』〈西洋史新話 第8冊〉、博文館、1915年11月、87-95頁。 NCID BN12532206NDLJP:945721

ナルヴァの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/02 23:23 UTC 版)

デルク=エルスコ・ブラインス」の記事における「ナルヴァの戦い」の解説

詳細は「ナルヴァの戦い (1944年)」を参照 1944年1月14日ソビエト赤軍ドイツ軍によるレニングラード包囲網を破りオラニエンバウムドイツ軍部隊エストニアナルヴァへの撤退開始した1944年1月26日、第SS装甲軍団オラニエンバウムからの後退開始し、「ネーデルラント旅団1月28日朝に後退開始した旅団は150kmに渡る長距離戦いながら後退し新たにナルヴァ川防衛線を確立することになっていた。1月30日にはエストニアナルヴァ市北方のKeikinoに到着し次いでナルヴァ市へ移動した。 ナルヴァの戦いの序盤において「ネーデルラント旅団ナルヴァ橋頭堡北方中心部防衛担当したが、2月13日第54SS戦車猟兵大隊指揮官ショックSS少佐戦死した

※この「ナルヴァの戦い」の解説は、「デルク=エルスコ・ブラインス」の解説の一部です。
「ナルヴァの戦い」を含む「デルク=エルスコ・ブラインス」の記事については、「デルク=エルスコ・ブラインス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ナルヴァの戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナルヴァの戦い」の関連用語

ナルヴァの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナルヴァの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのナルヴァの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのデルク=エルスコ・ブラインス (改訂履歴)、第20SS武装擲弾兵師団 (改訂履歴)、オットー・カリウス (改訂履歴)、第23SS義勇装甲擲弾兵師団 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS