クリシュフの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/16 07:29 UTC 版)
クリシュフの戦い(クリシュフのたたかい、英語: Battle of Kliszów)は、大北方戦争中の1702年7月19日(グレゴリオ暦)、ポーランド=リトアニア共和国のクリシュフ近くでおきた戦闘[7]。アウグスト2世率いるポーランド=ザクセン連合軍は数でスウェーデン軍に上回り、陣地も防御に有利にもかかわらず、カール12世率いる、人数上では半分以下のスウェーデン軍に敗北した[8]。
- ^ スウェーデン軍は書類上では16,230人で[1]4ポンド砲4門あったが、実際は飢饉、疫病、疲労により[1]1万[2]から1万2千人(うち3分の2が歩兵)だけが戦闘に適した状態にあった[1]。
- ^ ザクセン軍は書類上では22,230人で[1]大砲46門あったが、実際は飢饉、疫病、疲労により1万5千[2]から1万8千人(うち半分以上が騎兵)だけが戦闘に適した状態にあった。ポーランド=リトアニア軍は書類上では約1万2千人で[1]大砲も4か5門あったが[3]、少なくとも3分の1は兵士ではなく一般市民であり、実際は6千[2]から8千人(主に騎兵)だけが兵士だった[1]。
- ^ スウェーデン軍は戦死者300、負傷者500[4]から900人であり[2]、最も広く受け入れられている数字は800人である[5]。さらに、捕虜も2人あり、そのうち1人が士官であった。また軍旗が1本失われた[4]。
- ^ ザクセン=ポーランド=リトアニア連合軍の合計は戦死2千であり[4]、一部の文献では1,800人とした[2]。撤退中に殺された人数はその上であったが、確実な人数は不明である[4]。捕虜は約1,700人であり[5]、うち1,100人は負傷していなかった。合計では約1,500人が負傷した[2]。ザクセン軍は大砲、資金、軍旗60本、アウグスト2世の軍用行李を全て損失した[6]。
- ^ a b c d e f Generalstaben (1918). Karl XII på slagfältet, II. P.A. Norstedt och söners förlag, Stockholm. pp. 413–414.
- ^ a b c d e f Carlson, Fredrik Ferdinand (1883). Sveriges historia under Konungarne af Pfalziska huset, II. Norstedt: Stockholm. p. 105.
- ^ a b Wagner, Marek. Kliszow 1702. Warsaw, 1994.[リンク切れ]
- ^ a b c d Generalstaben (1918). Karl XII på slagfältet, I. P.A. Norstedt och söners förlag, Stockholm. pp. 438–439.
- ^ a b von Rosen, Carl (1936). Till kännedom om de händelser som närmast föregingo svenska stormaktsväldets fall, II. P.A. Norstedt & söner, Stockholm. p. 58.
- ^ a b c d e f Larsson (2009), p. 140.
- ^ Frost (2000), p. 271.
- ^ Frost (2000), p. 273.
- ^ Frost (2000), p. 228.
- ^ Frost (2000) p. 229.
- ^ Frost (2000), p. 230.
- ^ Frost (2000), pp. 229ff, 263ff.
- ^ a b Tucker, S.C., 2010, A Global Chronology of Conflict, Vol. Two, Santa Barbara: ABC-CLIO, LLC, ISBN 9781851096671.
- ^ a b c d e f g h Frost (2000), pp. 271-272.
- ^ a b Ericson (2003), pp. 268–273.
- 1 クリシュフの戦いとは
- 2 クリシュフの戦いの概要
- 3 結果
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