ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキとは? わかりやすく解説

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ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/08 06:51 UTC 版)

ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキ
Hieronim Augustyn Lubomirski
ルボミルスキ家

出生 1647年
ポーランド・リトアニア共和国ジェシュフ
死去 1706年4月20日
ポーランド・リトアニア共和国、ジェシュフ
配偶者 コンスタンツィア・フォン・アルテンボックム
子女 アンナ
マリアンナ
エルジュビェタ
アレクサンデル・ヤクプ
イェジ・イグナツィ
ヤン
ヤクプ
父親 イェジ・セバスティアン・ルボミルスキ
母親 コンスタンツィア・リゲンザ
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ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキHieronim Augustyn Lubomirski, 1647年 - 1706年4月20日)は、ポーランド・リトアニア共和国大貴族、政治家、軍事指導者、帝国諸侯)。

生涯

ヘトマンイェジ・セバスティアン・ルボミルスキとコンスタンツィア・リゲンザの三男。ヴィシニチュ、ヤロスワフおよびジェシュフの領主であった。

プウォツクの聖職録修道院長及びマルタ騎士団員で、1676年より王冠領大旗手、1683年より王冠領宮内副長官、1692年より王冠領財務長官、1702年よりクラクフ県知事、クラクフ城代及び王冠領野戦ヘトマンを務め、同年中に共和国最高軍司令官である王冠領大ヘトマンに昇任した。1675年白鷲勲章を拝受。

ヤン3世ソビェスキの指揮下でクリミア・タタールオスマン帝国軍と戦い、1673年のホチムの戦いにも従軍した。また長兄スタニスワフ・ヘラクリュシュ同様、1665年に父が起こしたルボミルスキの反乱に参加することは拒んだ。1681年通常セイムの議長に選ばれた。

1683年の第二次ウィーン包囲で勇猛さを示してその名を轟かせた。また、それに続くハンガリーでの戦役(大トルコ戦争)にも従軍した。1697年の国王自由選挙では、フランス人のコンティ公フランソワ・ルイを支持した。

1704年ザクセン出身のアウグスト2世に敵対するワルシャワ連盟に参加、国王空位が宣言されるとスウェーデンの支援を受けて自らポーランド王位に就こうと画策した。しかし、スウェーデン政府がスタニスワフ・レシュチニスキを新王に選ぶと、失意のうちに政界から引退した。





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