最初の王位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 05:23 UTC 版)
「アウグスト2世 (ポーランド王)」の記事における「最初の王位」の解説
1696年のヤン3世ソビェスキの死に伴い、首尾よくカトリックに改宗したアウグストはロシアとオーストリアの支援を得て、1697年にポーランド・リトアニア共和国の国王に選出された。国王自由選挙に際し、アウグストはユダヤ人銀行家ベレント・レーマンに資金調達をさせた。 アウグストは選挙時、前国王の息子ヤクプ・ルドヴィク・ソビェスキや、フランスの推薦するコンティ公フランソワ・ルイなどの他の有力候補に選挙で勝利したと言われるが、これは間違いである。アウグストは大々的な賄賂工作も空しく、得票数ではコンティ公におよばなかったが、フランス人候補が共和国に入る前にポーランドに急行し、戴冠式を行って即位の既成事実を作ってしまったのである。このため一部のポーランド人はアウグストの王位の合法性に疑問を持っていた。 アウグストはポーランド王の立場から神聖同盟による対オスマン帝国戦争(大トルコ戦争)を続行した。大トルコ戦争は1697年にゼンタの戦いの後和平交渉が始められたが、ポーランド軍は1698年にモルダヴィアへの遠征の直後、タタールの侵入をピドハイツィの戦いで破った。この戦勝は翌1699年、オスマン帝国にカルロヴィッツ条約を結ばせることになり、ポーランドはポドレとカミェニェツ=ポドルスキを回復した。アウグストは野心的な統治者で、ポーランド王位を自分の息子に世襲させることを望み、ザクセン選帝侯としての利益のために混乱状態のポーランド・リトアニア共和国に命令を下すこともあった。 ところが、アウグストによる内政改革構想は対外的な新領土獲得への期待の前にたち消えとなった。アウグストは従弟のデンマーク王フレデリク4世およびロシアのツァーリ・ピョートル1世と結んで、年若いスウェーデン王カール12世から領土を奪おうとした。大北方戦争の結果、ポーランドが獲得すると決められた地域はスウェーデン領リヴォニアだった(北方同盟)。ところがカール12世は有能な軍司令官としての才能を示し、デンマークを早期に戦争から撤退させて、ナルヴァの戦いでロシア軍を追い返すと、アウグストとの単独決戦を始めた。カール12世の戦略はスウェーデンにもポーランドにも等しく破滅を招くことになった。カール12世の戦略は軍略のそれであり、政略ではなかった。カール12世はポーランドを征するとその野心が誇大化していき、やがてロシアの地への征服を目論むようになる。そのツケを払わされたポーランドは、後にロシアの台頭によって脅威の全面に立たされることとなる。 カール12世は1701年7月9日にリガを包囲していたアウグストの軍勢をドヴィナ川の戦いで破り、ポーランド=ザクセン連合軍をリヴォニアから撤退させると、ポーランドへの侵略を開始した。ポーランドでは連戦連勝を続け、1702年5月14日に共和国の首都ワルシャワを占領し、続いてクリシュフの戦いで再度ポーランド=ザクセン軍を撃破し、クラクフに入城した。1703年の春にも陸軍元帥アダム・ハインリヒ・フォン・シュタイナウの率いるザクセン軍にプウツクの戦いで勝利し、トルンを包囲して陥落させた。 この時期にはアウグストも講和を申し出ようとしていたが、カール12世はポーランド王にもっと自分の言いなりになる者を据えようと考えた。1704年、カール12世はスタニスワフ・レシチニスキをポーランド王位につけ、王位を否認されたアウグストは(1704年夏にナルヴァで結ばれた同盟に基づき)ロシアと共同でポーランドに出兵したが、1706年2月13日のフラウシュタットの戦いで敗北してザクセンにも攻め入られ、9月1日、アルトランシュテット条約で無理やりスタニスワフにポーランド王位を譲ることを承認させられた。 一方、ロシアではピョートル1世が自軍の改革に成功し、1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデン軍を完膚なきまでに叩きのめした。これはスウェーデン・バルト帝国の没落とロシア帝国の覇権獲得の画期となった。
※この「最初の王位」の解説は、「アウグスト2世 (ポーランド王)」の解説の一部です。
「最初の王位」を含む「アウグスト2世 (ポーランド王)」の記事については、「アウグスト2世 (ポーランド王)」の概要を参照ください。
- 最初の王位のページへのリンク