最初の症例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:58 UTC 版)
「マルセイユの大ペスト」の記事における「最初の症例」の解説
1720年6月20日、ベル・テーブル通りの狭く暗い旧市街地で、マリー・ドプランという女性が数時間のうちに死亡した。同時代の医師たちはこの死亡例が真にペストによるものか疑義をもっていた。事実、綿花の梱包がはなたれ、ペスト菌を持ったネズミノミが拡散される以前、ペストの流行は乗組員の間にとどまっていたようである。 6月28日、仕立て屋のミシェル・クレスプが急死した。7月1日にはエシェル通りに住む2人の女性、EygazièreとTanouseが死亡した。一人は鼻の脱疽(ノミの刺傷が原因で起こり、高い感染力を持つ潰瘍。炭疽と混同しないように注意)が原因で死亡し、もう一人はペストの明らかな徴候である横痃のため死亡した。 7月9日までに、ペストが存在することはもはや明らかとなった。その日、シャルル・ペイソンネルとその息子ジャン=アンドレ・ペイソンネルは、両方とも医師であったが、ジャン・ガランド通りの12歳の子供の枕元に呼ばれ、ペストと診断し市参事会員に警告を発した。遺体は石灰の中に埋葬され、居宅は壁で囲まれ隔離された。この段階になっても市参事会はこれが限定的な感染に過ぎないという希望を持っていた。グラン・サン・タントワーヌ号からの貨物はジャール島の隔離所から移された。7月21日以降、次第に死者の数は増加する一方となり、ジロー神父は「神はその民に宣戦を布告した」と書き記している。
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