最初の発見者とは? わかりやすく解説

最初の発見者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:29 UTC 版)

竹島問題」の記事における「最初の発見者」の解説

発見未完権原とされ、相当の間内植民地設置するなどといった活動によって確定的な権原としたり、占領意思継続していることを示すのでなければ領有とは言えない。 朝鮮于山島日本松島韓国主張概略日本の主張の概略1145年編纂された『三国史記』によると512年于山国朝鮮新羅服属している。後の文献にある于山島はこの于山国一部であり、その于山島独島現在の竹島)である。つまり独島512年から韓国領土である。 『三国史記』には于山国である鬱陵島のことは書かれているが、周囲の島のことは全く書かれていない。「512年6月于山国服属土地産物貢いだ于山国は溟州(江原道のちょう東の海の島にあり、別名を鬱陵島といい、約40キロメートル四方ある。」との記述から、鬱陵島の本来の名が于山島であり、于山島独島ではなく鬱陵島から92キロメートル離れている竹島于山国ではなかったことが明白である。独島512年から韓国領土であるとの韓国側の主張論拠となる資料存在しない李氏朝鮮時代初期には、現在の鬱陵島が「于山島」という名称であった考えられる。しかし、朝鮮空島政策のため、鬱陵島を「于山島」と呼んでいた鬱陵島民すべてが1435年までには朝鮮本土に連行されたため、その後従来于山島は「鬱陵島という本土風の呼び方定着し、「于山島」の名は独島現在の竹島)を呼ぶ名称として移行したものと考えられる。 『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に于山島という名が初め現れる。そこには「按撫使の金麟于山島から還った時、大きな竹・水牛の皮・生綿子アシカ等を献上し、3人の住民率いて来た。島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と記載されている。自然状態竹島にはもなく人が住め環境でなく、まして献上品15戸の家及び男女併せて86人の住民などそこにないことは自明である。歴史資料によれば韓国側の主張とは反対に于山島という記述竹島を指す可能性すら存在しない1454年編纂された『世宗実録地理志』に「于山武陵二島が県(蔚珍県)の真東の海の中に在る二島互いに遠くはなれておらず、天気良い日には眺めることができる。新羅時代には、于山国または鬱陵島称した。」とある。天気良い日にだけ眺めることができる島は独島現在の竹島しかないので、独島現在の竹島)がこの文献于山島違いない。 『世宗実録』には「一説には鬱陵島とも云う100四方である。」と続いている。朝鮮政府于山武陵二島なのか鬱陵島一島なのか把握しておらず、于山国国名島名混同していた。「二島互いに遠くはなれておらず、天気良い日には眺めることができる。」というのは朝鮮半島から見た鬱陵島のことで、国名冠した島が鬱陵島から約90kmも離れた無人島現在の竹島であるはずもない。また、続く本文はすべて鬱陵島内容である。 『八道総図』には于山島鬱陵島の西に描かれ位置間違っている。これは当時独島現在の竹島)の位置正確に描いた文献がなかったせいであると思われる。しかし、朝鮮王朝は、鬱陵島近く于山島という別の島があることを認識していた。 1530年朝鮮発行された『八道総図』に初め于山島描かれるが、鬱陵島の西に鬱陵島同程度大きさ架空一島描いている。竹島鬱陵島南東約90kmに二島構成される小島なので、竹島ではありえない朝鮮政府于山島を全く把握していない。 伯耆国商人江戸幕府より渡海免許を受け竹島鬱陵島)に渡った日本側は離島にわたるときには渡海免許必要だったというが、鬱陵島以外の渡海免許の例を示せいでいる渡海免許は、朱印状と同じで、鬱陵島朝鮮人にあったときに自分たちが倭寇ではないということを示す目的があったと考えられる。従って江戸幕府は、鬱陵島松島現在の竹島)を当初朝鮮領と認識していた可能性がある。 日本では国内他の国移動するときは許可が必要で、伯耆国から鬱陵島へ渡るのにも当然許可必要だ朱印状とは全く違う。無人島先占した国の領土となる。伯耆国商人1618年より1696年まで約80年もの間、松島現在の竹島)を経由し鬱陵島渡ってこの島を開発している。鬱陵島には朝鮮人がいたが、松島現在の竹島)に朝鮮人が来たという証拠何もない日本には『松嶋絵図』(1656年頃)を初め現在の竹島描いた多数古地図存在するが、韓国には位置形状がおよそ現在の竹島には当てはまらない于山島地図しか存在しない1667年日本松江藩士書いた隠州視聴合記』には「この二島鬱陵島現在の竹島)は無人の地で、高麗見えるのは、雲州から隠州を望むようだ。よって日本北西の地で、この州をもって限りとされる。」と書かれている。「この州」とは隠州隠岐)のことであり日本限界隠岐としている。添付地図隠岐地図のみで鬱稜島や現在の竹島地図はない。おそらく日本はこの時、松島現在の竹島)や鬱陵島朝鮮領であることを認めたものに違いない。 『隠州視聴合記』の文中には「北西二日一夜行くと松島現在の竹島)がある。又一日程で竹島鬱陵島)がある。俗に磯竹島と言って竹・魚アシカが多い。この二島無人の地である。」としており、現在の竹島もはっきり認識している。鬱陵島へは、この文献50年も前から幕府許可得て伯耆国 米子から漁労や竹の伐採などのために渡っており、鬱陵島領有をめぐる外交交渉竹島一件)で竹島鬱陵島)を放棄したのは1696年のことである。従って、文中の「この州」は鬱陵島指していると考えるのが適当であるが、仮に「此州」が隠岐を指すとし­ても、人の住める地が隠岐までと言っているに過ぎない隠州調査した内容なので渡航していない鬱稜島や現在の竹島添付図がないのは当然。 1728年編纂された『粛宗実録』に、1696年朝鮮安龍福鬱陵島遭遇した日本人抗議し、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ」と言っている。子山島于山島のことで、于山島独島現在の竹島)のことである。当時日本現在の竹島松島呼んでいるので朝鮮領である。安龍福その3年前日本抗議した時には徳川幕府より于山島朝鮮領だという書契もらっている。 朝鮮漁夫である安龍福鬱陵島日本密航した犯罪人である。朝鮮の『粛宗実録』に記載されている安龍福尋問記録事実異なることが多く日本人追いかけ松島から日本渡ったとしていることは、罪を逃れるための偽証である。安龍福日本人の言う松島于山島だとしているが、彼はその于山島位置把握していない。また、徳川将軍朝鮮漁夫竹島現在の鬱陵島)や松島手放すような書契を渡すはずもない。 1693年安龍福抗議により、鬱陵島于山島帰属巡って徳川幕府朝鮮との間に領有問題起こったが、幕府から鳥取藩への質問状鳥取藩竹島鬱陵島)と松島現在の竹島)は自藩領でないと回答している。幕府朝鮮との交渉最終的に竹島鬱陵島)を放棄することを朝鮮側伝えており、鬱陵島付属島である松島現在の竹島)も同時に放棄している。 鳥取藩回答鳥取藩が自藩領ではないといってに過ぎない幕府竹島鬱陵島)に対す領有意思があったため、2年以上も朝鮮との間で領有に関する外交交渉竹島一件)を行った。この交渉においては松島現在の竹島)の名は一切出てきておらず、朝鮮側地図見て朝鮮政府松島を全く認識していない。1696年江戸幕府朝鮮対し竹島鬱陵島)を放棄する通達出しているが、松島現在の竹島)についてはもちろん何も書いていない。幕府竹島領有争いにわざわざ約90kmも離れた松島含めるはずもない。 1770年編纂された『東国文献備考』に「鬱陵于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である」とある。この于山独島のことである。当時日本独島松島呼んでいるのでまさに于山島松島独島で、独島朝鮮領である。1808年の『万機要覧』にも同じことが書かれている。(詳しく于山島参照) 『東国文献備考』の「鬱陵于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。」との一文始め同様の一文は、虚言の多い安龍福証言引用である。この当時朝鮮地図からいって、朝鮮政府竹嶼日本人の言う松島誤認している。 1785年成稿した、林子平当時牢人であった)の『三国通覧輿地路程全図』に竹嶋鬱陵島)とその附属于山島独島)が描かれており、朝鮮と同じ色で彩色され朝鮮領と明記されている。この地図小笠原諸島領有日米交渉の際に、幕府根拠として用いており、幕府竹島朝鮮領として認めた証拠になる(三国通覧図説参照)。また、当時日本の『大日本国全図』、『日本輿地図』、『日本国地理測量之図』、『官板実測日本地圖』、その他民間作られ地図には、独島当時日本名である松島記載されていない記載されている地図隠岐鳥取と同じ色ではなく無色である。したがって日本松島朝鮮領だと認識していた。また、多く朝鮮古地図于山島描かれており、この于山島独島である。 『三国通覧輿地路程全図』に描かれている竹嶋鬱陵島)の北東に、南北長い小さな付属島があるが、島の大きさ形状位置関係からいって、これは現在の竹嶼であり、この地図現在の竹島描かれていない(一民間人私的出版物証拠能力はない)。また、幕府がこの地図をもってアメリカ小笠原領有権認めさせたというのは新聞歴史小説上の話であり、事実ではない。当時はすでにこの地図よりも遙かに正確な経緯度入りの『改正日本輿地路程全図』が普及しており、竹島現在の鬱陵島)と松島現在の竹島)が描かれている。18世紀入ってからの朝鮮・韓国古地図于山島は、全て鬱陵島近傍竹嶼比定できる。したがって于山島現在の竹島ではない。 1836年大阪町奉行竹島事件裁判が行われたが、その際資料として提出された「竹島方角図」に朝鮮半島竹嶋鬱陵島)・シマ現在の竹島)が朱色塗られており、朝鮮領として描かれたものと考えられる。(詳しく竹島事件参照竹島事件の「竹島方角図」は、民間人である会津屋八右衛門尋問中に書いたもので八右衛門活動地朱色塗ったに過ぎない。したがって江崎下関対馬付近に朱色の印がある。国外との貿易について幕府筆頭老中だった浜田藩松平周防守康任が「竹島日の出土地とは定め難いが松島なら良い」としたことや、竹島事件判決文に「松島渡航名目をもって竹島にわたり」との一節があることから、竹島鬱陵島)への渡航禁止した松島現在の竹島)への渡航禁止されていなかったことが分かる。これ以前1820年には浜田藩儒学者 中川顕允が編纂した石見外記にも高田屋嘉兵衛北前船竹島松島の間を航路として使用していることが書かれており、松島現在の竹島)を国内みなしていた。 19世紀作成され韓国地図には、鬱陵島の東に于山島明確に描かれているものがみられ、その于山島には峰が描かれているものがある。竹嶼には峰がないため、これらの地図于山島明確に独島(現在の竹島)を表している。 『大東輿地図』(1861)の于山島は鬱稜島の東に隣接し一島構成されている。現在の竹島は、西島東島の2島で構成されており、その位置大きさも全く違う。島の形状地図付された距離の目盛りからいって、この于山島現在の鬱稜島に隣接する竹嶼描いている。 日本1899年編纂された『大韓地誌』を根拠于山島独島現在の竹島)ではないと主張するが、この地誌後記に「この本は日本の地理書を翻訳したもので不足な点が多い」と記されている。鬱稜島や于山島韓国領であるにもかかわらず大韓帝国領土東経12430分から13035分である」と書かれており、鬱陵島含まれていない。したがって、この書物地図内容は正確ではなく、『大韓全図』の鬱稜島に「于山」の記載があるからといってその位置于山島正確な位置とはいえない。 1899年朝鮮の歴史家の玄によって編纂された地理書大韓地誌』の中に、「大韓全図」という経緯度入りのかなり正確な付属図が付いている。この地図中に鬱陵島並んで于山の名が記載されている。于山島と書いていないことから、于山鬱陵島とその周囲記載されている島全体指しているか、または于山文字位置関係から、現在の鬱陵島付属する竹嶼という島であることが推測できる。この『大韓地誌』は大韓帝国学校でも使われたことのある信用性の高い地図である。

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