1944年 レニングラード戦線 - ナルヴァの戦い
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「ハンス=イェスタ・ペーアソン」の記事における「1944年 レニングラード戦線 - ナルヴァの戦い」の解説
1944年1月14日、ソビエト赤軍がレニングラードを包囲しているドイツ軍の戦線を突破すると、現地のドイツ軍諸部隊はエストニアのナルヴァへの退却を開始した。この時、ペーアソンは1月16日の戦闘で負傷して後送され、2月12日に野戦病院で一級鉄十字章を授与された。 負傷から回復したペーアソンは1944年3月3日に中隊に復帰し、ナルヴァの戦いにおけるナルヴァ橋頭堡を巡る攻防戦に参加した。その最中の1944年4月19日、第11SS装甲偵察大隊第3中隊長ヴァルター・カイザーSS中尉が戦死し、ペーアソンが代行の中隊長となった。その後は別のドイツ人SS中尉が中隊指揮を引き継いだが彼もまた戦死したため、1944年6月21日にSS中尉に昇進していたペーアソンが7月11日付で第11SS装甲偵察大隊第3中隊長に就任した。 ちなみにペーアソンは、1944年5月から6月にかけて第11SS装甲偵察大隊がエストニア北部のシッラマエにおいて休養している時に、独断で中隊内のスウェーデン系エストニア人および非常に若い兵士の何名かが中立国スウェーデンへ脱出するのを手助けした。これは今次大戦におけるドイツの敗北を悟ったペーアソンが、疲れ切り、幻滅した若者たちを絶望的な戦闘に強制投入する代わりにとった措置であった。 1944年8月、ソビエト赤軍がエストニアのペイプス湖で攻勢を開始すると、13日にペーアソンの第11SS装甲偵察大隊第3中隊はエストニアのタルトゥ市における戦闘に投入された。この時ペーアソンはシュビムワーゲンに乗って偵察に向かったが、ある街の近くで二方面から機銃掃射を受けた。これ以上の進出は効果無しと判断したペーアソンは偵察を中止し、無傷で帰還した。
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