支配初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
明帝国末期の17世紀に入ると、北方の半狩猟民族であった女真族(後に文殊菩薩に因んで『満州族』と名を変えた)が、明帝国との銀(馬蹄銀)とテンの毛皮の貿易などの交易により財力を蓄え、遂に後金が太祖ヌルハチが現れた。ヌルハチの死後は、その子の太宗ホンタイジはモンゴルのオイラトや朝鮮北部にまで勢力を伸ばし、1636年には国号を「清」とした。 1644年に李自成により北京が陥落すると、清は当時抗争中であった山海関の守備将軍・呉三桂が地下の通路からホンタイジとその軍勢を招き入れ、北京を包囲・占領し、李自成を逃亡させ、瀋陽故宮から北京へと遷都した。幸いなことに、一連の抗争の間に傷ついたのはごくわずかな建物だけで、引き続き明帝国の宮殿が清の帝宮として用いられることとなった。しかし、明の時代の建物の呼称の多くは変更された(例:皇極殿→太和殿、中極殿→中和殿、建極門→保和殿 など)。これらは、明の傲慢な支配体制(皇が極まる→皇極殿)から、「和」を重んじる支配体制(太いなる和→太和殿)への変化を宣明する為であったと言われる。[要出典]
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