支配体制の変遷及び滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:17 UTC 版)
「モチェ文化」の記事における「支配体制の変遷及び滅亡」の解説
モチェの支配体制については、旧来は、モチェ川の政体が南北に勢力を徐々に伸ばして統一的に広がって行くと考えられていたが、最近は、ランバイェケ川流域のシパン(Sipan)、ヘケテペケ川流域のラ=ミナ(LaMina)などの発掘調査が進んで、I期~III期の遺跡が調査されることによってモチェ像が変わってきた。 最近は、島田泉による説とマイケル=モーズリー (Moseley) による説が有力である。島田説は、I期からモチェ川の政体は、「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる神殿ピラミッドの建設がアドベ(日干しレンガ)で建設され始めた。一方で北側に位置するランバイェケ川上流の政体が台頭しつつあった。両者は共通の観念や工芸技術を持ち、共存する形で発展をしつづけた。III期になるとモチェ川の政体は、南側にある各河谷の政体を従え、ランバイェケの政体は、下流域まで勢力を伸ばす。IV期になると、モチェ川の政体は、ランバイェケの政体をしたがえた。これについては、土器や建造物に北側の政体に見られた特徴が消失し、新しい建物が建てられていることを証拠としてあげる。モーズリー説は、南側は、モチェ川の政体による直接支配で、ランバイェケは間接的に支配されたと考える説である。 なお、モチェV期になると「太陽のワカ」と「月のワカ」は放棄されてしまい、より上流に区画された幾何学的な構造を持つ都市遺跡であるガリンドが建設された。また、ランバイェケでもよく似た構造を持つパンパ・グランデの都市が建設される。ただし、パンパ=グランには、ワカ=フォルタレサという高さ55mに及ぶピラミッドが建設された。この変化については、幾何学的な区画構造をもつ都市遺跡で知られるワリの侵入説が1960年代に唱えられていたが、現在は、6世紀後半の気候変動による乾燥化であろうと考えられている。またモチェV期には、写実的な象形土器はつくられず、器面全体を複雑な儀式や宗教的なシンボルの繰り返しのようなモノトーンな図像で埋め尽くすような土器が作られた。 モチェの滅亡は、ワリの侵略などではなく、テオティワカンや古典期のマヤがそうであったと考えられているように内部の反乱などによって自壊していったと推定する研究者もいる。 オハイオ州立大学の地質学者ロニー・トンプソンは、1980年代にアンデス山脈で採掘したアイスコア(氷床コア)と呼ばれる氷の層を調べることで、歴史上においてもエルニーニョという異常気象がおこった時期がわかることを発見した。エルニーニョが引き起こす異常気象は歴史上の文明の衰亡とも関係づけられるとされる。モチェ文化の滅亡前にも最大級のエルニーニョ現象があったことがわかり(565年-600年)、関連が指摘されている[要出典]。 太陽のワカ モチェ遺跡の月のワカ。太陽のワカと対になるように配置されている。極彩色に塗られた美しい漆喰レリーフで知られる。背後の三角形の山はセロ・ブランコと呼ばれている。 月のワカの彩色レリーフ。 月のワカの彩色レリーフ。モチェIV期,A.D.500頃。 月のワカの彩色レリーフの一部拡大写真。生贄がこの神のためにささげられたと考えられている。
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