支配原理・支配機構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)
中国史料から、渤海には唐制の三省六部に相当する政堂・宣詔・中台三省と忠・仁・義・智・礼・信の六部、御史台にあたる中正台、国子監にあたる冑子監、九寺にあたる七寺(宗属寺・太常寺・司賓寺・大農寺・司蔵寺・司膳寺・殿中寺)などの中央政治機関があり、唐の十六衛(中国語版)に相当する十衛という中央の軍事組織があり、さらには京・府・州・県という地方行政区分まであったことが判明している。さらにこれらの国家機構を支える官僚には、唐にならって、一秩から八秩までの官品が与えられており、渤海は、その政治組織・支配機構の上では唐に酷似しており、そうした膨大な組織を有機的に結びつける政治原理もまた、唐の均田制・府兵制・租庸調制を基礎とする中央集権的律令体制を模倣したものと推測される。実際、「渤海、使を遣わし、唐礼及び三国志・晋書・三十六国春秋を写さんことを求む。これを許す」(『唐会要』巻三十六)、「初め其の王、しばしば諸王を遣わし、京師の太学に詣り、古今の制度を習識せしむ」(『新唐書』巻二百十九・渤海伝)などの史料の事実から、渤海が唐の律令を採用していたことはほぼ確実である。また、「その王はもと大をもって姓と為す。右姓は高・張・楊・賓・烏・李と曰い、数種に過ぎず。部曲・奴婢の姓なき者は皆その主に従う」(『契丹国志』巻二十六・渤海伝)、「代以大氏為酋長」(『五代会要(中国語版)』巻三十・渤海伝)、「俗に王を謂いて可毒夫と曰う…その命を教と為す」(『新唐書』巻二百十九・渤海伝)などの史料、諸書に散見する都督・節度使・刺史・県丞などの官名もまた、渤海が王族と少数の有力氏族出身の官僚貴族によって支配されていた律令体制的国家であったことを裏付ける。 橋本増吉は、「官制では唐の尚書省に当るものを政堂省、門下省に当るを宣詔省、中書省に当るを中台省となし、六都に相当するものには左司政の下の忠仁義の三部と、右司政の下の智禮信の三部とがあり、唐の御史台の代りに中正台、殿中省の代りに殿中寺、宗正寺の代りに宗属寺というのをおき、その他武官の左右猛賁、熊衛、羆衛、南北左右衛の各大将軍、将軍など一々唐制に模したものである。尚日本に来た渤海使者の官命には唐書に漏れたものもあるが、是等を総合して考うるに、彼等が唐制に模倣した程度は、この頃の日本の大寶令などより遥に進んで、殆ど全く自己の創意とか、自国の特色とかを忘却していたのである。これは前にも述べた通り固有のものをもっていなかった為である」と指摘している。
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